宇垣内閣流産 1937/01/29
taro's トーク
ああああああ
引用この日、宇垣に大命降下の報が入ってから、陸相官邸では寺内、梅津(次官)のほか磯谷軍務局長、中島(今朝吾)憲兵司令官、
阿南(惟幾)兵務局長、佐藤(賢)軍務課国内班長、石原(莞爾)参謀本部第一部長心得らが集まり、
宇垣組閣に協力すべきかどうかを論じていた。
カリスマ的な雄弁家、石原は“満州建国の生みの親”といわれていた自信と共に立ち上がって雄弁をふるった。
「今やわが陸軍は粛軍の途上にある。
派閥感の強い旧将軍の出現は適当ではない。
とくに三月事件におけるクーデター同調の嫌疑は粛軍工作上大いに考慮する必要がある。
また国防の充実を計らんとするときに当り、宇垣を首相に迎えることには大きな問題がある。
反対派の真崎が拘禁されて判決未定のときに、宇垣が内閣首班となるのは具合が悪い。
宇垣には政党、財閥との間にも、軍が唱える庶政一新と反する疑念がある。
この際断固として宇垣を忌避すべきである」
「宇垣さんに危険があるといけないから上京をひかえてもらおう」
と伊豆長岡と連絡をとり、すでに松籟荘を発していることを知ると、京浜国道でこれを待つことにした。
豊田穣 「西園寺公望(下)」
P.307この本を入手
引用政党の間にくすぶっていた軍部に対する対立感情が爆発して、
濱田国松代議士と寺内壽一陸相との腹切り問答をきっかけに、昭和十二年(一九三七年)一月二十一日、
廣田弘毅内閣は総辞職となり、後継首班として、宇垣一成(退役)大将に大命が下ったが、
陸軍は猛反対した。
宇垣は陸相時代、軍縮政策を断行し軍人たちの反感をかっていた。
それもあるが、石原としては、自らの軍事拡大プランが実現する方向に進もうとしている現在、
歯車を逆回転させてはならないのである。
猛然と働きかけ、結局、宇垣の組閣は流産してしまった。
天皇の大命が下ったにもかかわらず、組閣不能になったのは文字通り前代未聞であった。
石原は十河信二を組閣参謀として送りこみ、内閣書記官長に着かせ、昂然とうそぶく。
「林のおやじなら、猫にも虎にもなれる」
翌年三月、少将に進級した石原は、参謀本部の作戦部長に昇格する。
升本喜年 「軍人の最期」
P.310この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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