宇垣内閣流産
1937/01/29
破壊力抜群! 復活したばかりの軍部大臣現役武官制で、陸軍が宇垣内閣を葬った。
 【内閣成立史】  
1936/02/26   二・二六事件
1936/02/28   岡田内閣総辞職
1936/03/06   陸軍(陸相予定者寺内寿一)組閣干渉 (自由主義者の排除を要求)
1936/03/09   広田内閣成立 (首相:広田弘毅
1936/03/23   陸軍、二・二六事件関係者の処分と人事異動を発表
1936/05/07   斉藤隆夫「粛軍演説」
1936/05/18   軍部大臣現役武官制復活
1936/09/21   陸海両相、広田首相に行政機構・議会制度改革案を提出
1936/11/25   日独防共協定調印
1937/01/21   浜田国松「割腹問答」
1937/01/21   寺内陸相、広田首相に解散を要求
1937/01/23   広田内閣総辞職
1937/01/25   宇垣一成に組閣命令
1937/01/29   宇垣内閣流産
1937/01/29   林銑十郎に組閣命令
1937/02/02   林内閣成立 (首相:林銑十郎
1937/03/31   食い逃げ解散 (会期最終日)
〜 陸軍、宇垣拒否の理由 〜
(表) 三月事件にかかわった宇垣のような人物では粛軍の妨げになる
(裏) ロボットのように意のままに操れる人物がいい →「越境将軍」林銑十郎
taro's トーク ああああああ
引用この日、宇垣に大命降下の報が入ってから、陸相官邸では寺内梅津(次官)のほか磯谷軍務局長、中島(今朝吾)憲兵司令官、 阿南(惟幾)兵務局長、佐藤(賢)軍務課国内班長、石原(莞爾)参謀本部第一部長心得らが集まり、 宇垣組閣に協力すべきかどうかを論じていた。 カリスマ的な雄弁家、石原は“満州建国の生みの親”といわれていた自信と共に立ち上がって雄弁をふるった。
「今やわが陸軍は粛軍の途上にある。 派閥感の強い旧将軍の出現は適当ではない。 とくに三月事件におけるクーデター同調の嫌疑は粛軍工作上大いに考慮する必要がある。 また国防の充実を計らんとするときに当り、宇垣を首相に迎えることには大きな問題がある。 反対派の真崎が拘禁されて判決未定のときに、宇垣が内閣首班となるのは具合が悪い。 宇垣には政党、財閥との間にも、軍が唱える庶政一新と反する疑念がある。 この際断固として宇垣を忌避すべきである」
石原の大見得に寺内梅津は沈黙していた。 寺内は反宇垣ではないが宇垣びいきでもない。 他の将校たちには反宇垣の色が濃かった。 少々出しゃばりの気のある中島憲兵司令官は、
宇垣さんに危険があるといけないから上京をひかえてもらおう」
と伊豆長岡と連絡をとり、すでに松籟荘を発していることを知ると、京浜国道でこれを待つことにした。
引用政党の間にくすぶっていた軍部に対する対立感情が爆発して、 濱田国松代議士寺内壽一陸相との腹切り問答をきっかけに、昭和十二年(一九三七年)一月二十一日、 廣田弘毅内閣は総辞職となり、後継首班として、宇垣一成(退役)大将に大命が下ったが、 陸軍は猛反対した。
その急先鋒となり、中心となったのは、石原莞爾であった。 宇垣支持を退け、断固反対を貫く。
宇垣は陸相時代、軍縮政策を断行し軍人たちの反感をかっていた。 それもあるが、石原としては、自らの軍事拡大プランが実現する方向に進もうとしている現在、 歯車を逆回転させてはならないのである。 猛然と働きかけ、結局、宇垣の組閣は流産してしまった。
天皇の大命が下ったにもかかわらず、組閣不能になったのは文字通り前代未聞であった。
石原らが強く推して、成立させたのは、林銑十郎内閣であった。
石原は十河信二を組閣参謀として送りこみ、内閣書記官長に着かせ、昂然とうそぶく。
林のおやじなら、猫にも虎にもなれる」
翌年三月、少将に進級した石原は、参謀本部の作戦部長に昇格する。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。