阿部内閣成立
1939/08/30
複雑怪奇な欧州の情勢にどう対処するの? 降って沸いたように阿部大将、首相就任。
[詳細]   
1939/08/23   独ソ不可侵条約締結
1939/08/25   3国同盟交渉打切りを閣議決定
1939/08/28   平沼内閣総辞職 (欧州の天地は複雑怪奇)
1939/08/30   阿部内閣成立 (首相:阿部信行
1939/09/01   ドイツ軍、ポーランド侵攻開始 (第二次世界大戦勃発)
1939/09/04   欧州戦争不介入声明 (支那事変解決に邁進)
1939/09/15   ノモンハン事件停戦協定調印
1939/09/17   ソ連軍、ポーランド東部に侵攻開始
1939/09/19   価格等統制令(9・18ストップ令)発表 (10/20 施行)
1940/01/14   阿部内閣総辞職
1940/01/16   米内内閣成立 (首相:米内光政
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用後任の首相は陸軍がかつぎ出した阿部信行陸軍大将にきまり、 板垣陸相は陸軍を代表して少数閣僚制でゆくことを要望。 阿部内閣の発足がそれまでの内閣交替劇にくらべて異質なのは、陸軍側が後任陸相として 多田駿か磯谷廉介を推薦しようとし、新聞にもほぼ確定的に伝えられたのが、 一転して侍従武官長の畑俊六の起用にきまったこと、発足時の閣僚は陸軍の希望どおり、 わずか十二名、前内閣からの留任者が一人もないことである。 政治の面目一新が要求されていたのである。
この交替劇をめぐって、『西園寺公と政局』第八巻に、湯浅内大臣から原田熊雄がきいた宮中の消息がのっている。

総理の信任の時に、陛下は陸軍の非常によくないことをつくづく慨歎された後で、 「新聞に伝えるような者を大臣に持って来ても、自分は承認する意思はない」と仰せられ、 極めて厳粛な御態度で、「どうしても梅津を大臣にするようにしろ。 たとえ陸軍の三長官が議を決して自分の所に持って来ても、自分にはこれを許す意思はない。 なお政治は憲法を基準にしてやれ。 外交は英米を利用するのが日本のためにいいと思う。 それからこの際であるから、ことに内務、司法、外務、大蔵の閣僚の選任については、 自分は深く関心をもつ」と仰せられた。 陛下のお考えでは陸軍大臣に御自分の思う者をお置きになって、 総理と協力してどうしても徹底的に陸軍の革正をしなければ、外交も内政も駄目だ、と深くお感じになったからである。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「阿部内閣」は「阿部信行内閣」と同じ意味です。