畑陸相、単独辞任 (陸軍、後任推薦拒否)
1940/07/16
抜いた、陸軍、伝家の宝刀。 軍部大臣現役武官制の乱用で、米内内閣の息の根とめた。
    
1940/05/10   ドイツ軍、西部戦線に総攻撃開始
1940/06/22   フランス(ペタン政府)降伏
1940/06/24   近衛文麿、枢密院議長辞任 (新体制運動推進を決意)
1940/07/16   畑陸相、単独辞任 (陸軍、後任推薦拒否)
1940/07/16   米内内閣総辞職
1940/07/17   近衛文麿に組閣命令
1940/07/19   荻窪会談 (近衛松岡東條吉田
1940/07/22   近衛内閣A成立 (首相:近衛文麿
〜 ドイツの快進撃にあせる陸軍の思惑 〜
米内内閣を総辞職させて → 近衛内閣をつくって → 日独伊三国軍事同盟締結
taro's トーク ああああああ
引用七月十二日、米内を訪問して次の三ヶ条の要望を手渡した。
一、現情勢においては独伊と手を握り、大東亜を処理するの方針に出るの要あるべし。
二、現内閣にては外交方針の大転換困難なるにつき、より善き内閣の出現を前提として辞職しては如何。
三、自分は部下の統率上非常に困難なる立場にあり。 また益々困難を来す状況に立至るべきを憂慮す。
の表情は暗かった。 彼は米内倒閣に賛成ではない。 しかし今や青年将校たちは閑院宮までも動かして倒閣、三国同盟締結に盲進しようとしている。 謹直なにはそれを抑える政治力がなかった。 かつては米内の同郷の板垣が青年将校に突き上げられて米内三国同盟を迫ったが、 今度は自分の番であった。 の胸中には寂寥感が吹き抜けていた。
十四日、天皇木戸に伝えた。
「朕の米内内閣に対する信頼は今も変ってはいない。 国外の情勢によって内閣の更迭を見るのはやむを得ないと思うが、自分の気持は米内に伝えてもらいたい」
七月十六日午前九時、畑陸相は首相官邸に米内を訪れて内閣総辞職について再度勧告した。 暑い日であった。 天井の扇風機の鈍い音が余計に首筋の汗を誘った。 米内は去る十二日が申し入れた三ヶ条について慰留してを返したのであるが、 陸軍報道部がそれから間もなく、の懐中に入っていた筈の三ヶ条を内閣に何の相談もなく新聞に発表してしまった。 ここまで陸軍の傍若無人の振舞いを見ては米内としても黙ってはいられない。 米内はいつもになく厳しい態度になって、(の回想による)
「いやしくも大命を奉じて内閣を組織した以上は大義名分がなければ、陛下の前に出て御暇を頂戴するとは言えない。 しかし、陸軍大臣はもはや他に方法なしとして辞表を出すのならば、後任を推薦してもらわねばならぬ」
と強い口調で言った。
連日の苦悩には憔悴していた。 が自殺するのではないか、と米内は心配していた。
「後任については三長官に計りますが、極めて困難と思われます」
はそう言って官邸を出た。 三長官といっても一人は陸相の、残りは張本人の閑院宮参謀総長、 いま一人の教育総監山田乙三(十四期で終戦時関東軍司令官としてソ連に抑留さる)はすでに了解ずみであった。
米内は憮然とした表情での後ろ姿を見送った。 陸軍は最後の良心もその野望のもとに汚してしまったのである。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。