阿部内閣総辞職
1940/01/14
経済政策に失敗、わずか4ヵ月半で阿部大将、政権を去る。
    
1939/08/23   独ソ不可侵条約締結
1939/08/25   3国同盟交渉打切りを閣議決定
1939/08/28   平沼内閣総辞職 (欧州の天地は複雑怪奇)
1939/08/30   阿部内閣成立 (首相:阿部信行
1939/09/01   ドイツ軍、ポーランド侵攻開始 (第二次世界大戦勃発)
1939/09/04   欧州戦争不介入声明 (支那事変解決に邁進)
1939/09/15   ノモンハン事件停戦協定調印
1939/09/17   ソ連軍、ポーランド東部に侵攻開始
1939/09/19   価格等統制令(9・18ストップ令)発表 (10/20 施行)
1940/01/14   阿部内閣総辞職
1940/01/16   米内内閣成立 (首相:米内光政
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用阿部内閣は貿易省設置問題で外務官僚に反撃され、 米穀対策では農林官僚にソッポをむかれ、米穀が不足し、食糧危機・代用食問題が日常会話に登場する事態を招いた。 基本的には、支那事変を二年戦うことで早くも国力の底がみえはじめたということである。 陸軍は一部の下士官兵の帰農などの応急の措置をとる一方、農林省の決断をきびしく督促した。
官僚の協力を得られない弱体内閣の補強策として、政党政治家の入閣が考えられ、 阿部内閣町田総裁に対して文字どおり三顧の礼をつくして入閣を要請した。 畑陸相の意を体して武藤軍務局長が牛込の町田私邸を訪問したという記事が新聞にのったのは、説得工作の初期のことである。
政党側には、阿部内閣の脆弱さをよみとり、政変待ち、政権奪取への期待が濃厚であり、 町田総裁は閣外協力を謳ってついに入閣の要望をけった。
この顛末は、阿部内閣の弱体をさらけだしたものとみなされて、 新聞は「内閣へ不信昂る」の記事をのせる。 米価値上げ、煙草値上げとインフレは昂進し、例年よりも寒い冬をむかえて木炭の配給も不十分で、 「政府はあれども政治はなし」といわれた。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「阿部内閣」は「阿部信行内閣」と同じ意味です。