対米最後通告
1941/12/08
痛恨の集団朝寝坊。 大使館の大失態で、ハワイ攻撃は「卑怯な不意打ち」になった。
    
1941/07/28   蘭印、日蘭石油民間協定を停止
1941/07/28   南部仏印進駐
1941/08/01   アメリカ、対日石油輸出禁止
1941/09/06   御前会議、対米開戦を決意 (「帝国国策遂行要領」決定)
1941/10/16   近衛内閣B総辞職
1941/10/17   白紙還元の御諚
1941/10/18   東條内閣成立 (首相:東條英機
1941/10/19   海軍軍令部、ハワイ攻撃作戦を認可
1941/11/26   ハワイ作戦機動部隊、ヒトカップ湾(エトロフ島)出港
1941/11/26   野村・来栖両大使、ハル・ノートを受領
1941/12/01   御前会議、対米開戦決定
1941/12/08   ハワイ奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)
1941/12/08   対米最後通告 (AM04:20)
1941/12/08   ヒトラー、モスクワ攻撃放棄を指令 (撤退開始)
1945/08/15   玉音放送 (終戦の詔勅)
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用一時四十五分には、野村と栗栖は玄関先で車に乗り込んで、いつでも出発できるようにしていたが、 まだタイプは終らなかった。 打ち終ったのは、午後一時五十分だった。
両大使の車は、フルスピードで国務省に向かった。 国務省は休日なのでひっそりとしていた。 野村ハルと会談するのは、これが実に四十六回目だった。 その間にルーズベルトとの会見も九次を数えていた。 長官室でしばらく待たされた後、ようやくハルが入ってきた。 午後二時二十分だった。 すでにハワイでは日本海軍による奇襲攻撃が開始されて一時間近く経ち、 パール・ハーバーは戦闘の修羅場と化していた。 ハルはその第一報を知らされていたが、素知らぬふりで野村と栗栖を迎え入れた。 だが、ハルは二人に椅子をすすめることもしなかった。
野村は遅れたことを詫びつつ、「午後一時にこの回答を貴長官に手交すべく訓令を受けた」といって、 対米覚書をハルに渡した。
ハルは覚書の内容をすでに知っていたが、念のため最後の頁まで急いで目を通すと、激怒していった。
「自分は公職にあること五十年になるが、このように恥ずべき偽りと歪曲とをもって充満された文書を見たことはない」
ハルは、何かいおうとする野村を制止して、あごでドアのほうをさした。 野村と栗栖は頭をたれて退席した。 二人が去ると、ハルは自分がいったことをすぐに速記者に書き取らせ、新聞に発表した。 情報戦において、アメリカは完全に日本に水をあけていた。
野村と栗栖が大使館に帰ったとき、大使館員たちはラジオ放送で真珠湾攻撃のニュースを聞き、騒然となっていた。 野村と栗栖はあまりのことに愕然となった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。