近衛内閣B総辞職
1941/10/16
やっぱりな結末。 外交実らず、開戦の決断できず、近衛文麿、政権からの逃走。
    
1941/07/16   近衛内閣A総辞職
1941/07/18   近衛内閣B成立 (首相:近衛文麿
1941/07/25   アメリカ、日本資産の凍結
1941/07/28   南部仏印進駐
1941/08/01   アメリカ、対日石油輸出禁止
1941/08/04   近衛首相、日米首脳会談を陸海両相に打診
1941/08/17   アメリカ、日米首脳会談の提案に回答 (態度表明が先決)
1941/09/06   御前会議、対米開戦を決意 (「帝国国策遂行要領」決定)
1941/10/12   荻窪会談 (近衛首相外相と和戦について議論)
1941/10/16   近衛内閣B総辞職
1941/10/17   東條英機に組閣命令
1941/10/17   白紙還元の御諚
1941/10/18   東條内閣成立 (首相:東條英機
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用近衛は後任に東久邇宮稔彦を推した。 ここまできて戦争をくいとめうるのは、強い信念の持ち主であり、皇族の権威を援用できる宮しかないと考えたのである。 実はこの案は東条の考えであった。 九月六日の決定をめぐって傷ついた当事者たちを超える新主体によって、 政軍を再統合してもらうほかないと、東条は着想し、十四日夕、これを鈴木貞一を介して近衛に伝えたのであった。 ここで興味深いのは、東条東久邇宮の強固な対米戦争反対論を知ったうえで推挙していたことである。
九月六日の御前会議の翌朝、東条陸相を自邸に呼んで注意した。 が第一次大戦後ヨーロッパに長期滞在した際、フランスのクレマンソー元首相ペタン元帥が日米戦争を予言し、 決してアメリカと戦ってはならないと忠告したことを、は話して聞かせた。 アメリカが外交的に日本を締めつけ、短絡的な日本が自分の方から開戦するとのクレマンソーの予言通りに昨今の事態は進んでいるとは指摘し、 猛省を促した。 東条は戦は賭けであり、やってみなければわからない、五分五分であると反論した。 見解の相違といって、東条は席を立った。 を推した東条は、宮首相が「聖上の御意」に沿って戦争を回避するなら、それもよいと達観していたようであった。
だが木戸内大臣が宮内閣の構想に反対した。 皇族をこの重大決定の当事者とすべきではない。 結果がどうでるかわからぬ瀬戸際だから皇族内のエースを使おうとの提案に対し、 そういう局面だからこそ皇族は使うべきでないと木戸は応じた。 陸海軍が一致して平和を支持するのでなければ、皇族内閣は不可能と考えたのである。 皇室の長期安泰を図る宮廷官僚の論理である。 天皇木戸に同意した。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「近衛内閣B」は「第3次近衛内閣」「第三次近衛文麿内閣」と同じ意味です。