日本軍、マニラ占領 1942/01/02
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用ハワイ奇襲をマッカーサーが知るのは、現地で攻撃の第一報が発せられてから一時間四十分後。
それもラジオ・ニュースで知ったササランド参謀長が電話で知らせて来たのが最初なのだから、
米軍の連絡網はたしかに混乱していたということがいえる。
マッカーサーの最初の反応は「日本軍部隊はおそらく手きびしい敗北を喫したに違いない」というものであった。
この誤った判断から、それ以後の作戦の食いちがいのすべてがはじまる。
日本の一式陸攻と零戦計三百余機がクラーク・フィールドの飛行基地を襲ったとき、
フィリピン防衛空軍力の主体であるB17三十五機のうち二十四機までが地上にあり、乗務員は昼食の最中であった。
一瞬のうちに十八機が爆破炎上し、残る六機も損害を受けた。
これはあとで査問会が開かれ責任が追及されたほどの大失策であったが、日本軍戦力の過小評価、
命令の不徹底など多くの理由があったにしろ、要するにマッカーサーにとって日米戦争が早く始まりすぎたということが、
この緒戦の敗北の大きな原因であるといえよう。
こうしてフィリピン防衛のマッカーサー戦略にとって最大の支えである空軍力は、
開戦第一日で大半が失われた。
支援の海軍力はといえば、太平洋艦隊はハワイで痛めつけられ、アジア艦隊は南方洋上に撤退してしまっている。
彼はいまや陸軍力だけでフィリピンを防衛しなければならない。
それでも強気のマッカーサーは、改訂レインボー戦略案に固執し、上陸する敵を波打際で撃退せよと命令した。
十日日本軍はルソン島北端のアバリとビガンの両地点から上陸を開始、十二日にはレガスピーにも上陸が行なわれた。
それにしても、本間雅晴司令官の率いる第十四軍の主力部隊が西北部のリンガエンに上陸するだろうと、
マッカーサーが推測したのはさすがである。
日本軍の主力は思わぬ巻波に悩まされながらも同月二十二日、上陸を完了、一気にマニラを目指して進んだ。
ウェインライト将軍の防衛軍はひとたまりもない。
波打際作戦がもろくも破れてはじめてマッカーサーは、翌二十三日、伝統の「オレンジ戦略2号」に戻ることを決意する。
つまり首都マニラを捨て、司令部をコレヒドール要塞に移し、バターン半島に拠ってそれを守るという作戦である。
十二月二十六日、マニラは「非武装都市」と宣言された。
日本軍が一月二日に無血入城できたのは当然である。
この間にルソン島の米比軍は寸刻を争ってバターン半島へ戦略的後退を急いでいた。
それを単なる敗走と考えていた日本軍は、追撃の機を逸し、マニラとバターンを結ぶカルムピット大鉄橋は撤退を終った米軍によって
爆破されてしまうのである。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
|