武藤軍務局長更迭
1942/04/19
東條慢心。 陸相就任以来の“右腕” 軍務局長を背中からばっさり 抜き打ち解任。
    
1941/04/16   日米交渉開始
1941/09/06   御前会議、対米開戦を決意 (「帝国国策遂行要領」決定)
1941/10/18   東條内閣成立 (首相:東條英機
1941/11/26   野村・来栖両大使、ハル・ノートを受領
1941/12/01   御前会議、対米開戦決定
1941/12/08   ハワイ奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)
1942/02/15   シンガポール攻略
1942/02/18   大東亜戦争戦捷第一次祝賀国民大会開催
1942/04/18   ドゥーリトル爆撃隊、東京・名古屋・神戸などを空襲
1942/04/19   武藤軍務局長更迭
1942/04/30   総選挙[21] (翼賛選挙/推薦381、非推薦85)
1942/06/05   ミッドウェー海戦 (〜06/07)
1942/08/07   アメリカ海兵隊、ガダルカナル島上陸
1943/02/01   ガダルカナル島撤退開始 (02/07 撤退完了)
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
語録 人々は私の転任について色々下馬評したが、私にはそんなことはどうでもよいのだった。 軍務局長の不愉快さはやってみねばわからぬことで、これを解放されたのだから嬉しいにきまっている。
武藤章 (元軍務局長)
引用軍務局長武藤章は二年半にわたってその職にあり、 開戦前の日米交渉では、東條の右腕だった将校であり、しばしば大胆な直言もした。 はじめのうち東條もその言を受けいれたが、真珠湾攻撃以来の戦果のまえに、 しだいに渋い表情を見せるようになった。 武藤は、東條内閣の他の閣僚より政治、軍事の両面に発言権をもち、なかでも書記官長星野直樹をぬくほどの権勢をもった。 それが徐々に星野との対立に発展した。東條自身は星野の側に立った。
四月にはいって、東條武藤を南方の占領地視察に赴かせたが、その間に、 武藤を南方の近衛師団長に転勤させることを決意した。 直接のきっかけは、星野鈴木貞一東條に働きかけたためといわれている。 東條を補佐するその役割に、東條のほうがしだいに疎んじるようになったとみるほうがあたっている。 立川の飛行場に戻った武藤に、副官の松村知勝が転任の命令書を手渡した。 無礼といわれても仕方のない方法だった。このとき激昂した武藤は、迎えに出ていた松村にむかって、
東條は政治亡者になったのか。 クーデターを起こして東條を倒すか。このままではズルズルと亡国だ」
とまで口走ったという。しかし軍務局長という激務に疲れていたこともあって、 彼は黙したままスマトラのメダンに赴任していった。
引用武藤がなぜ軍務局長をおわれたか、考えられるいくつかの事情をまとめておく。
第一に、局長人事の決定権は東条陸相にあり、開戦後のあいつぐ勝報に自信をつけた東条に、 政治能力・識見でまさっている武藤を忌避する気持がはたらいたこと。 また東条内閣誕生時の、武藤の反星野・反鈴木の言動が、当人たちの耳に入り、東条の気持に投影した事情もある。 矢次一夫は、従来指摘されてきた「星野のうらみ」とともに、参謀本部から仇敵視されて、 陸軍省内でも孤立していた武藤が、十七年元旦、和平の方策を要路に説いたことが戦果に酔う東条を決定的に刺激したことにふれ、 もう一点、直接の引金となったと思われる事情をあかした。
熊本出身の技術者で逓信省工務局長の松前重義が、有馬頼寧をNHK会長にかつごうとし、 有馬の秘書とともに武藤にたのんだ。 たのまれた武藤は、その実現のため関係機関にはたらきかけた。 これが、日頃武藤を使いきれなかった東条に切札をあたえたというのである。 民間人事にまでくちばしを入れるとはなにごとかということで、 武藤の政治関与に対する東条の忌避に理由をあたえた。
さらに田中隆吉、田中新一などの反武藤の機運がその東条の背景にあった。
田中隆吉は東条人事によって憲兵を主管する兵務局長になり、 軍務局長のポストを狙っていたといわれる。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。