東條内閣総辞職
1944/07/18
さしもの憲兵政治も倒閣への流れに抗しきれず、ついに東條内閣崩壊。
    
1941/09/06   御前会議、対米開戦を決意 (「帝国国策遂行要領」決定)
1941/10/16   近衛内閣B総辞職
1941/10/17   白紙還元の御諚
1941/10/18   東條内閣成立 (首相:東條英機
1941/12/08   ハワイ奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)
1942/02/15   シンガポール攻略
1942/04/30   総選挙[21] (翼賛選挙/推薦381、非推薦85)
1942/06/05   ミッドウェー海戦 (〜06/07)
1943/02/01   ガダルカナル島撤退開始 (02/07 撤退完了)
1943/04/18   海軍甲事件 (連合艦隊司令長官山本五十六戦死)
1943/09/08   イタリア、無条件降伏
1943/11/27   カイロ宣言
1944/02/21   東條首相兼陸相、参謀総長を兼任 (嶋田海相、軍令部総長兼任)
1944/03/08   インパール作戦開始 (〜07/09)
1944/03/31   海軍乙事件 (連合艦隊司令長官古賀峯一「殉職」/04/05 発表)
1944/06/06   連合軍、ノルマンディー上陸作戦開始 (オーバーロード作戦)
1944/06/19   マリアナ沖海戦 (〜06/20)
1944/07/07   サイパン陥落 (守備隊玉砕)
1944/07/14   東條首相、参謀総長辞任
1944/07/18   東條内閣総辞職
1944/07/20   小磯国昭・米内光政に協力内閣の組閣命令
1944/07/22   小磯内閣成立 (首相:小磯国昭
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用への辞職勧告が暗礁にのりあげたと同様に、 米内光政の説得も進まなかった。 海軍省軍務局長岡敬純、大麻唯男、石渡荘太郎がのりだして説得したが、 米内は他の重臣との約束を守り、入閣要請には決してうなずかなかった。 米内の背後では、海軍の反東條の幕僚が説得に負けぬようにネジをまいていた。 最後に佐藤賢了が米内邸に来て、威圧した。
「あなたは東條内閣だから入閣しないのではないですか。 それともいかなる内閣でも入閣するつもりはないのですか」
「いかなる内閣であっても入閣するつもりはない」
米内はあっさり答えた。
ここで東條の延命策は停滞した。 十七日夕刻、陸相官邸に、東條は、富永、佐藤、赤松ら腹心の将校を呼び、対策を打ち合わせた。 彼らの怒りは深く、「国賊どもを逮捕しろ」という激したことばがなんども吐かれた。 木戸や重臣は君側の奸だ、彼らをはずして直接天皇を説得しようという案も語られた。 民間右翼をつかい、に圧力をかけ辞表を書かせようという案。 ついで陸軍の兵隊を動かしてのクーデターに近い方法も練られたが、 それでは国内の摩擦が大きすぎるという結論が出て沙汰やみとなった。 ところがこの打ち合わせの席に新たな情報がもたらされてから、東條の意思は急に萎えた。
その情報というのは、重臣阿部信行からのもので、 平沼邸での重臣会議の結果、挙国一致内閣樹立が必要で、 一部の閣僚の入替えでは何の役にもたたないという結論をだしたというのであった。 阿部の伝言は、「これに抗したのは自分だけで、全員の見解がこれに集約され、 この方針のもとに木戸から上奏されることになろう」といっていた。 東條内閣では人心掌握はできないというのが切り札だともいい、 はじめから重臣たちは入閣の意思などなかったことも明らかになった。
部下たちの激怒をよそに、東條の辞意はかたまった。 天皇には重臣の入閣を約束していたのに、それが無理なことが裏づけられたのである。
お上のご信任にこたえられなくなった以上、もうこの地位にとどまることはできぬ」
そのあと無念そうにつけ加えた。
「重臣たちの排斥にあって退陣のやむなきに至ったのだ。 むずかしい改造計画をだしてきて、しかもそれを邪魔するというのだから言語道断な話だ」
その夜、東條は、家族に荷物の整理を命じた。 二年十ヵ月に及ぶ官邸生活は、この住居を自分のものであるかのように錯覚させていたことに気づくと、 改めて重臣を呪詛することばを吐いた。 が、これまでと同じように、そこに自省のことばはなかった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「東條内閣」は「東条内閣」「東條英機内閣」「東条英機内閣」と同じ意味です。