ヤルタ協定 1945/02/11
taro's トーク
ああああああ
引用ヤルタでの諸交渉の大部分は、新たに解放された東欧をどう処理するかにかかっていた。
最終決定は延期されたが、領土変更については、前大戦後に引かれたカーゾン線を修正して、それ以東のポーランド領をソ連が獲得し、
ポーランドは代償として東ドイツの一部を与えられることとなった。
なお、ポーランドおよびユーゴに関するスターリンの要求は、ソ連の監視下ですでに成立している共産党政権をば、
亡命政府代表の承認を得て確実にするという点であった。
もしそうなれば、ポーランドおよびユーゴにおけるソ連軍と共産党勢力との支配権は名実ともに不動のものとなる。
予想どおり、ローズヴェルトもチャーチルもスターリンの要求に反発したが、
双方の意見が調整されたのが、米英ソ三国共同の「解放欧洲に関するヤルタ宣言」であった。
本宣言の目的は「人口中のあらゆる民主的要素を広く代表し、自由選挙を通じて人民の意志に応える諸政府の可及的速やかな建設を意図した、
臨時政府当局の結成」にあるとされた。
額面どおりに受けとれば、右の宣言はスターリンの譲歩であったといえる。
東欧を実力で解放し、現実にこれを占領していたのはソ連軍であったにもかかわらず、
スターリンは、反ソ政権の樹立にいたるかもしれない自由選挙に同意したのである。
しかし、彼の譲歩がどこまで実質的であったかは疑問といわねばならない。
そもそも、「解放欧洲に関するヤルタ宣言」自体が、署名国によってさまざまに解釈された。
アメリカは字義どおりに解釈し、宣言は自由選挙を約束し、東欧には勢力範囲を設けないことをうたったものだとした。
前年十月チャーチルとスターリン間に結ばれたモスクワ協定に拘束されないアメリカは、自由な立場がとれたわけである。
これに対して、イギリス側の解釈は明確さを欠いていた。
モスクワ協定でイギリスはギリシアに自己の勢力を確保したものの、
もし宣言が字義どおり解釈されれば、すでに放棄したルーマニアおよびブルガリアへの発言権を回復する機会もあったからである。
ところがローズヴェルトやチャーチルとは反対に、スターリンはモスクワ協定を盾にとり、
ヤルタ宣言は飾り物にすぎないとした。
さきにも触れたように、彼はイギリス軍がギリシア抵抗部隊を撃退しつつあったとき、用心深く沈黙を守っていた。
ところが、いざヤルタ会談に臨むとなると、西側がバルカン北部でのソ連の優位を尊重すべきことを滔々と論じた。
そして、チャーチルが次第にローズヴェルトに味方して、字義どおりの解釈を主張するにつれ、
スターリンの驚きと不満とは大きくなった。
彼は終始、東欧の共産党「友好」政権こそソ連の安全に絶対必要、という姿勢を貫いたのである。
東欧をめぐるソ連と英米との見解の相違は、一九四五年七−八月にポツダムで開かれた三国会談で明確となった。
アメリカ国務長官ジェームズ・バーンズは、ソ連にたてついてこういった。
「合衆国は、ロシアがその境域に友好諸国をもつことを衷心から希望はする。
しかし、これら諸国は特定の政府とよりも人民との友好を求めるべきだ、とわれわれは信じる。
したがって、われわれは人民を代表する政府のほうを欲する。」
スターリンは即座にきり返した。
「これらのどの国でも、自由選挙による政府は反ソ的となるであろう。
それをわれわれは許すわけにはいかない。」
「友好的な」政府を求める立場と、「自由選挙」の政府を求める立場との対立が、
つぎの数ヵ月間に「大同盟」の崩壊をもたらす要因となるのである。
今津晃 「概説現代史」
P.255この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
|