重光外相辞任 1945/09/17
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用とりわけ、重光外相が東久邇首相や近衛副総理ら日本側指導者をマッカーサーと会見させまいとしたことが、憤りを巻き起こした。
重光には、首脳が会うべきは、外務省が実務的に十分詰めてからであり、それまでは時期尚早であるとの伝統的外交観があった。
日本のトップがマッカーサーのもとへ安易に近づくことは、「ディグニチー」(威厳)を損ない「媚態」外交の危険があると、
重光は論じた。
しかし、敵同士であった勝者と敗者が東京で一つの事業を始めようというのに、首脳間の相互理解なしにやっていけるわけがなかった。
重光にとって不幸なことに、マッカーサーもまた「重光一元性」を嫌っていた。
重光をバイパスしつつ、九月十三日に近衛が、十五日には東久邇が、それぞれマッカーサーと会見した。
会ってみれば、首脳会談を望まないのは重光一人であることが明らかであった。
【中略】
五百旗頭真 「占領期」
P.66この本を入手
引用総司令部の指令を、日本政府が受ける連絡機関として、とりあえず、設置した終戦連絡中央事務局 ―これについて、
東久邇内閣の内部に、二つの考え方が対立をきたして、内閣は動揺した。
「現在の事務的な連絡機関があれば十分である」と主張したのは、外務官僚出の重光外相であった。
これに反対したのは、緒方書記官長であった。
元朝日新聞副社長、ジャーナリスト出身の彼は、「内閣に総理大臣直轄の大きな連絡機構を持つべきである」と主張した。
この緒方と重光とは、戦時中の小磯国昭内閣のとき、対中国和平の繆斌工作をめぐって対立、
その結果、閣内不統一をきたし、総辞職をした経緯があった。
今度もまた、再び対立を再現することになった。
しかし、緒方の意見を支持する閣僚が多く、閣議は、
―終戦連絡中央事務局機構を拡大し、長官制を廃して総裁制をとり、次長二名を置く。 と、決めた。これを不満として、重光外相が辞任したのは、九月十七日のことであった。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.177この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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