日本社会党結成 1945/11/02
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用八月十五日、玉音放送を大阪市内の銀行において聞いた西尾末広は、その日のうちに京阪電車に乗り、
京都に水谷長三郎を訪ね、上京を約した。
十七日の夜行で上京した西尾は、松岡駒吉を訪ねて労働組合の再建を説き、平野力三と社会主義政党の結成を語った。
後に社会党右派を構成する社会民衆党系が、早い動きを示したのであった。
二十四日には徳川義親邸に旧無産政党各派のリーダー十数名が集まった。
「どうせアメリカに没収される皇室財産」を侯に引き出させて、平和研究所を作るとか、侯を党首にかつぐとかの計画があったようである。
翌二十五日には、平野の仲介で新党構想中の鳩山一郎を中心とするグループと銀座の交詢社で会った。
鳩山グループは共同して新党を作ろうと説いた。
西尾の返答は「われわれ指導者同士は、大人だから大局的に考えてあるいは協調できるかも知れないが、
お互いの背後にいる多勢のものを同調させることは、なかなか困難であると思う」であった。
鳩山は「育ちが違うから」と笑って同意し、「政治的余韻を残したままで別れた」。
「余韻」とは、別個に歩むが、折あれば提携・協力の可能性も空けておこうとの意味合いである。
伊藤隆教授が指摘するように、のちの保革対立的イメージでこの時期の社会主義政党をとらえてはならないであろう。
少なくとも右派の西尾らにとって、自由党を作りつつある人たちとの距離は、
左派の日本無産党系の加藤勘十や鈴木茂三郎らと比べても、遠いものではなかった。
とはいえ、社会主義政党を作る以上、バラバラでは支持層を失望させることになるので、日無系も、
そして日本労農党系の川上丈太郎、三輪寿壮、河野密、三宅正一、浅沼稲次郎らも糾合し、大同することとした。
他方、共産党は除外することになった。
かくて、十一月二日、日比谷公会堂において代議士一七名を擁する社会党結成式が、たいへんな盛り上がりのなかで挙行された。
五百旗頭真 「占領期」
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※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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