日本社会党結成
1945/11/02
あの分裂の歴史を繰り返すな。 旧無産諸政党が大集合、みんなで仲よくがんばろう!
    
1940/08/15   民政党解党 (以後無政党状態)
1940/10/12   大政翼賛会発足
1945/08/15   玉音放送 (終戦の詔勅)
1945/09/29   新聞各紙、天皇のマッカーサー訪問写真を掲載
1945/10/04   GHQ、「自由主義化」を指令
1945/10/10   徳田球一ら政治犯約500人釈放
1945/10/11   マッカーサー、幣原首相に憲法改正と5大改革を要求
1945/11/02   日本社会党結成 (書記長:片山哲
1945/11/09   日本自由党結成 (総裁:鳩山一郎
1945/11/16   日本進歩党結成
1945/12/01   徳田球一、共産党書記長就任 (共産党再建大会)
1945/12/17   選挙法改正 (婦人参政権など)
1946/01/04   GHQ、軍国主義者の公職追放などを指令
1946/03/06   政府、憲法改正草案要項を発表
1946/04/10   総選挙[22] (自由141、進歩94、社会93、協同14、共産5、他119)
1946/04/19   幣原内閣打倒共同委員会結成 (自由・社会・協同・共産の4党)
1946/04/22   幣原内閣総辞職
1946/05/19   食糧メーデー (飯米獲得人民大会開催)
1946/05/22   吉田内閣@成立 (首相:吉田茂
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用八月十五日、玉音放送を大阪市内の銀行において聞いた西尾末広は、その日のうちに京阪電車に乗り、 京都に水谷長三郎を訪ね、上京を約した。 十七日の夜行で上京した西尾は、松岡駒吉を訪ねて労働組合の再建を説き、平野力三と社会主義政党の結成を語った。 後に社会党右派を構成する社会民衆党系が、早い動きを示したのであった。
二十四日には徳川義親邸に旧無産政党各派のリーダー十数名が集まった。 「どうせアメリカに没収される皇室財産」を侯に引き出させて、平和研究所を作るとか、侯を党首にかつぐとかの計画があったようである。 翌二十五日には、平野の仲介で新党構想中の鳩山一郎を中心とするグループと銀座の交詢社で会った。 鳩山グループは共同して新党を作ろうと説いた。 西尾の返答は「われわれ指導者同士は、大人だから大局的に考えてあるいは協調できるかも知れないが、 お互いの背後にいる多勢のものを同調させることは、なかなか困難であると思う」であった。 鳩山は「育ちが違うから」と笑って同意し、「政治的余韻を残したままで別れた」。 「余韻」とは、別個に歩むが、折あれば提携・協力の可能性も空けておこうとの意味合いである。
伊藤隆教授が指摘するように、のちの保革対立的イメージでこの時期の社会主義政党をとらえてはならないであろう。 少なくとも右派の西尾らにとって、自由党を作りつつある人たちとの距離は、 左派の日本無産党系の加藤勘十や鈴木茂三郎らと比べても、遠いものではなかった。 とはいえ、社会主義政党を作る以上、バラバラでは支持層を失望させることになるので、日無系も、 そして日本労農党系の川上丈太郎、三輪寿壮、河野密、三宅正一、浅沼稲次郎らも糾合し、大同することとした。 他方、共産党は除外することになった。
かくて、十一月二日、日比谷公会堂において代議士一七名を擁する社会党結成式が、たいへんな盛り上がりのなかで挙行された。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。