東久邇宮内閣成立
1945/08/17
不穏な国内情勢を抑え、占領軍を迎えるため、切り札の宮様内閣ついに成立。
[詳細]   
1945/08/15   玉音放送 (終戦の詔勅)
1945/08/15   鈴木(貫)内閣総辞職
1945/08/17   東久邇宮内閣成立 (首相:東久邇宮稔彦/無任所相:近衛文麿
1945/08/30   マッカーサー厚木到着
1945/09/02   降伏文書調印 (全権:重光葵梅津美治郎/第二次世界大戦終結)
1945/09/03   重光・マッカーサー会談 (軍政中止)
1945/09/11   GHQ、戦争犯罪人逮捕を指令@ (東條東郷ら39人)
1945/09/17   重光外相辞任 (後任:吉田茂
1945/09/27   天皇、マッカーサーを訪問 (会談@)
1945/10/04   近衛・マッカーサー会談A
1945/10/04   GHQ、「自由主義化」を指令
1945/10/05   東久邇宮内閣総辞職
1945/10/09   幣原内閣成立 (首相:幣原喜重郎
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用近衛の好む皇道派の小畑を閣僚に迎えることに緒方は賛成し、石原莞爾を内閣顧問に招聘し(結果は辞退)、 海軍からは高木惣吉の副書記官長への就任を得た。 緒方は、軍が暴発した場合の討伐軍の指揮官に彼らを予定していたのである。
引用八月十五日、終戦の大役を全うした鈴木首相天皇に拝謁して骸骨を乞う(辞職を願う)た。 後任は皇族の陸軍大将東久邇宮稔彦王(二〇期、陸大二六期)に大命が下った。 戦後公刊された東久邇稔彦著『一皇族の戦争日記』によれば、内大臣木戸幸一から下話のあったのは 十四日の夕方であったというから、十四日天皇の御聖断が下った直後、鈴木首相は総辞職を決意したものであろう。 東久邇宮に正式に天皇の御内意が伝えられたのは十六日の朝で、侍従職からの招電で参内し、 天皇から組閣の大命をうけた。 組閣本部を赤坂離宮におき、閣員の人選はほとんど近衛文麿緒方竹虎が合議の上で決めたらしい。 『細川日記』には「東久邇宮殿下緒方竹虎を主軸とし、近衛公の援助の下に進められたり」とあるが、 東久邇宮は政界について全く知らないし、一切を近衛に委せたと日記にあるから、 結局内閣の主軸は緒方であった。
引用軍部にかわって国家機構の中枢を支配しはじめたのは、警察権をにぎる内務官僚と裁判権をにぎる司法官僚であった。 彼らは、東久邇宮首相の改革意見を無視し、自己の欲する方向に内閣の施策をねじまげていった。 そして東久邇宮首相自身、問題が天皇制の根幹にふれるとなると自分の限界をハッキリと露呈してしまい、 何の矛盾も感ぜずに内務官僚や司法官僚に同調した。 その結果、政治犯の釈放も、言論・集会の自由も、高等警察の是正も、何一つ実施されず、 逆にかえって軍隊の解体をおぎなうためと称して警察力の増強がくわだてられた。 八月二四日、閣議は警察力整備拡充要綱を決定した。 東久邇宮内閣は、さらに治安維持の支柱として町内会・部落会・隣組の組織を活用する方針をうちだした。 これらの組織は、義勇兵役法により国民義勇隊のなかに中隊・小隊・分隊として包含されていたが、 八月二一日の閣議で義勇隊の解散が決定されたのち、新たに警察力強化の限界をおぎなうものとして活用されることとなった。 これでは、国民の基本的権利もみとめられる余地がなかった。
東久邇宮内閣は、さらに自治と警察のとりしまりをこえて「国体の尊厳」をおかすような思想が台頭するのをおそれた。 治安維持法とともに治安立法の双璧をなしていた治安警察法によるとりしまり方針をあきらかにした。 八月二八日の閣議は、言論と結社の自由を確立するため、太平洋戦争の勃発と同時に制定された言論、出版、集会、 結社等臨時取締法の廃止を決定したが、同時に今後の言論・集会・結社のとりしまりは「治安警察法の精神にのっとる」こととした。 つまり、言論・集会・結社のとりしまりを太平洋戦争勃発前の状態にかえすというだけなのだ。 東久邇宮内閣が描く改革は、ポツダム宣言のはるか後方にとどまっていた。 東久邇宮内閣は、ポツダム宣言の趣旨をまったく理解していなかった。 だから、この時期にも、また占領が開始された九月になっても、司法当局は、 治安維持法違反事件にたいしては従前とおなじように裁判をつづけ、堂々と判決をくだしていた。 東久邇宮首相は、その後、九月の末にまだ政治犯の釈放が役所しごとのために実行されていないと不満らしくのべたが、 治安維持法によって政治犯が堂々と裁判されているのに政治犯が釈放されるなどは、ありえようはずがなかった。
引用議会を開き、「大本営発表」しか聞かされていなかった国民に、戦争と敗戦の実相を告げることも、 東久邇首相が強く主張したところであった。 だが、閣議において、「敗戦」という言葉ではなく「終戦」に改めるべきであるとの提案がなされる日本であった。 首相と外相は事実を曲げることはない、と貫いたが、組織と国家の面目についてまことに重い日本社会である。 官僚主義は敗戦によっても不死身であり、「例のごとく法規にとらわれ・・・・・・なかなか決定しなかった」(『東久邇日記』)。
ようやく九月四日、五日に臨時議会が開かれることになった。 すると今度は、議会で報告する敗戦の真相をなるべく少なくしようとする陸軍・海軍の説得に苦労することになった。 たとえば、小畑国務大臣は、敗戦の事実を明らかにすると国民の指揮にひびき、軍人を刺激する、と反対した。 軍部にとって不都合な動きを抑えるのに、二・二六事件再発の危険性をほのめかすことほど効果的な武器はなかった。 不穏な風評が飛び交うこの時期、この脅迫はまだまだ有効であった。 批判を浴びるかもしれぬ不都合な事実をないことにする情報封印感覚は、今も統治の任にある人々の間で健在であるから、 当時において抵抗が強かったことは、あえて説明を要しないであろう。 むしろ、戦前期に皇族と陸軍に育ちながら、首相が情報公開や透明性の真の信奉者であったことの方に、 驚きの眼差しを向けて然るべきであろう。 首相は伝統社会の体現者たちに応酬した。 戦争がこういう結果になる前に、自分が東条首相や軍に意見をしても、採りあげられた例がなかった。 今は責任者である私がすべてを自分の判断で決める。 今になってくだらぬ不平を言っても一切採りあげない、と。(『緒方竹虎』)
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「東久邇宮内閣」は「東久邇内閣」「東久邇宮稔彦内閣」「東久邇稔彦内閣」と同じ意味です。