幣原内閣成立 1945/10/09
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用六月、外務省の後輩である市川泰次郎は、吉田の指示で幣原を訪ねた。
五月二十五日の大空襲で千駄ヶ谷の自邸を、大事にしていた日記、書類、蔵書ともども焼失した幣原は、
打ちひしがれ最悪の事態に陥っていた。
多摩川畔にあった三菱系の東山産業の農場の一隅に逃れて仮住まいしていた。
幣原と会って、これが和平派希望の星かと市川は驚いた。
「非常にやせて生気がなく、がくがくとあごをならし、手もふるへ、誠に老齢そのものであつた。
このやうなご老体を和平運動にかつぎ上げて、果してどうかとさへ怪しんだ」
【中略】
体力の衰弱と病みがちな健康は、家と書類を焼かれ流浪の身となって以来、おそらく加速したのであろう。
手がふるえあごが異音を発して、来訪者を驚かせる上述の事態に至っていたのである。
それでも幣原引き出しをやめない吉田らは、常識的には老人に対し人情を欠いた残酷な後輩ということになろう。
ところが、人間分からないもので、幣原は七十三歳の老齢をもって政治の最高責任を帯びることにより、
活力をとり戻し、手のふるえもあごのぐらつきも消え、意義ある最晩年を持つことになるのである。
五百旗頭真 「占領期」
P.108この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「幣原内閣」は「幣原喜重郎内閣」と同じ意味です。 |