GHQ、軍国主義者の公職追放などを指令
1946/01/04
日本政府も戦々恐々、GHQの軍国主義者狩りがはじまった。
    
1945/07/26   連合国、ポツダム宣言発表
1945/08/14   御前会議、ポツダム宣言受諾を決定
1945/08/15   玉音放送 (終戦の詔勅)
1945/10/04   GHQ、「自由主義化」を指令
1945/10/11   マッカーサー、幣原首相に憲法改正と5大改革を要求
1945/12/17   選挙法改正 (婦人参政権など)
1946/01/04   GHQ、軍国主義者の公職追放などを指令
1946/01/13   幣原内閣改造
1946/04/10   総選挙[22] (自由141、進歩94、社会93、協同14、共産5、他119)
1946/04/22   幣原内閣総辞職
1946/05/03   幣原首相、後継首相に鳩山一郎(自由党総裁)を推薦
1946/05/04   GHQ、鳩山一郎(自由党総裁)の公職追放を通達
1946/05/22   吉田内閣@成立 (首相:吉田茂
1947/01/04   公職追放令改正 (追放範囲拡大)
1950/06/06   マッカーサー、吉田首相宛書簡で共産党幹部24人の公職追放を指令
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taro's トーク ああああああ
引用十月四日の自由の指令と内相以下警察幹部の追放が前の内閣を崩壊させたように、 一九四六年(昭和21)一月四日の公職追放令は、幣原内閣を存亡の淵に追い込んだ。 追放事由の広範なリストを一読して、閣僚の半分以上がひっかかるのではないかと次田書記官長は重大事態を認識した。 閣議を開かねばと考えて、もう一つの重大な要因を想った。 幣原首相が病に臥して出席できる状況ではなかったのである。
この日、軍国主義と超国家主義の抹殺を目的として、二つの指令、すなわち団体に対する解散指令(SCAPIN五四八)と 人物に対する追放指令(SCAPIN五五〇)が発せられた。 後者の付属書が、排除すべき人種をAからGまで七種にわたり列挙していた。 A 戦争犯罪者、B 陸海職業軍人、C 極端な国家主義者、D 大政翼賛会・大日本政治会等の重要人物、 E 日本の膨張政策を狙った開発会社や金融機関の役員、F 占領地長官、G その他の軍国主義者・極端な国家主義者。
総司令部内の政策形成を見れば、CIS(民間諜報局)段階の案では一九三〇年代すべてを対象としていたのが、 日中戦争開始の一九三七年(昭和12)七月以降に限定され、また全官庁が対象となっていた案に対して、 陸海軍・軍需の三省に対象が絞り込まれた点で、抑制的な側面もある。 その面での問題点は、形式的にある地位と組織にあった者を、熱狂的軍国主義者と良識派の内実を問わず一網打尽に追放することであった。 D項によって、衆議院に議席を持つ者は、ほぼ全滅と思われた。
他方、それ以上に大きな問題となるのは、G項であった。 AからFまでは中身を問わないとはいえ、逆に限定性が明瞭であり、いわれのない罪を着せられる危険は乏しい。 それに対し、G項は定義が不明瞭であり、誰でも追放しようと思えばできる。 三月一日の発表により、この点の明確化がなされた。 それによると、一九三七年から一九四五年八月の期間に政府の政策決定に関与した全閣僚を含むトップレベルのすべての官職が、 特に平和主義的であったと逆証されない限り、該当するとした。
引用一月四日金曜日は「御用始め」の日であるが、宮中では「政始の儀」が行われた。 それを終えた閣僚たちを公職追放令が襲った。 新年早々なんと無慈悲なことをと日本人は感じたが、GHQ側からすれば、暮れに用意できていた指令を、 日本人にとって格別に大事なお正月休みを特に配慮して、長く待ってやった結果なのである。 次田書記官長はただちに閣僚懇談会を官邸に帰って開き、その後世田谷の幣原邸へ走って病床の首相に報告した。 新聞が「内閣に致命傷―五閣僚、指令に該当」「政局は重大なる局面」と書いたように、 深刻な衝撃を受けつつも、内閣にとって事実関係を確かめることがまず急務であった。
確かめるため吉田外相が総司令部を訪ねようとしたが、 木戸御免の感のあった吉田外相もなかなかマッカーサーに会ってもらえなかった。 そのため五日に閣議は開かれず、六日の日曜日の午前十時から午後三時まで長い臨時閣議が開かれた。 そこでは三つの対応策が論じられた。 第一案は追放閣僚を外して、内閣改造により乗り切る。第二案は総辞職を敢行する。 第三案は、公職追放令の中の平和的業務遂行に不可欠であり代わりを得難い者については追放の一定期間の猶予を願い出ることができるとの規定を活用して、 総選挙まで現幣原内閣を全員継続する許可を得る。 以上のうち、第一案をもって基本方針とし、改造のうえ総選挙まで幣原内閣を政局を担うことを閣議は了承した。
なお、追放該当の閣僚は、堀切内相、前田文相、松村農相、田中運輸相そして次田書記官長であるとみられた。 それにしても痛感するのは、この五閣僚がそろいもそろって、軍国主義・侵略主義とは縁もゆかりもない良識派の立派な人物であり、 有能な政治家である点である。 翼賛政治の時期に役員であった事由に該当するわけであるが、中身を問わず形式要件のみで処分することの粗暴さは、 このリストを見ただけで明らかである。
引用実際のところ、日本における公職追放の衝撃は、日本の保守派やアメリカの友人たちが恐れ、 のちに主張されたほど広範なものではなかった。 というのは、マッカーサーは追放の執行を日本政府に頼ったし、 「新日本の組織の中で他の者と代わることが難しい有能な官僚の職を数多く失わせる」つもりはなかったからだ。 全人口の二・五%が追放されたドイツにおけるアメリカ占領地区と比較すると、 日本の数字は〇・二九%だった。 さらに言えば、漸次追放された二一万人の日本人の中で、八〇%は軍人だった。 政治指導者の追放はおもに政党の再編をもたらしたが、ほぼ全占領期間を通じて、 保守政党による内閣あるいは議会支配の土台を崩すことにはならなかった。 一九四六年四月に予定されていた最初の総選挙を公職追放が完了するまで延期すべきだという極東委員会提案をマッカーサーは却下した。 極東委員会は、資金と影響力を有する旧勢力の政治家たちが当選しやすいことを正確に予想していたのである。 そうした政治家の多くが追放されたとしても、彼らは自身の身代わりを指名することができた。 さらに政治家の追放は、アメリカが日本を統治していくうえで頼りとした国家官僚の力を強化するという効果をもっていた。 戦前の日本の侵略と抑圧の体制の中で、官僚がその一翼を担っていたことは明らかであるにもかかわらず、実際には、 官僚が追放されることはなかった。 同様に実業界やマスメディアの指導者たちも、追放令によって影響を受けることはほとんどなかった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。