国共内戦、全面戦争化 1946/07/12
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用一九二八年、北伐を完了して蒋介石が中国の支配者となったとき、彼の国民党政府は当初から二つの強敵に、
つまり国内の共産党と、外からの日本勢力とに直面せねばならなかった。
第二次世界大戦中、彼の立場はとりわけむつかしくなった。
けだし国土は、日本軍に席捲され南京の傀儡政権に統治された東部と、
首都延安を拠点とし共産党に支配された北西部と、首都重慶を拠点とし国民政府に支配された西部および南西部とに分断されたからである。
しかも、蒋政権が致命的な打撃を受けたのも、戦時中であった。
これまで蒋は、保守的な地主層と大実業家とから支援されてきたが、日本軍の進撃によって東部沿岸地方の大実業家勢力はほぼ一掃され、
内陸の利己的で近視眼的な地主層しか頼れなくなった。
これにくわえて、腐敗行為のはなはだしい蒋政権自体が、戦争の被害を受け階級的にも自覚した農民層の要求に答えられる政権とはほど遠かった。
ところが中国共産党は、農村根拠地での土地改革によって農民大衆の支持を得、またよく訓練された能率的組織をもつことによって、
支配地域に秩序をもたらした。
総じて中国共産党は、外敵の侵入を防ぎ国家再統一のために献身する愛国者というイメージを与えた点で、
国民党の比ではなかったといってよい。
日本の降伏後、その旧占領地をどう処理するかをめぐって国共が抗争を開始したときの状況は、以上のとおりであった。
民族大衆に人気のない蒋政権と、愛国者としてクローズ・アップされた中国共産党、両者抗争の帰結は数年後に証明された。
ともあれ内戦がさし迫ると、一九四五年十一月、アメリカはジョージ・C・マーシャル元帥を特使として派遣し、
調停をはかったが、結局は失敗に終わった。
マーシャルの来華当時から始まった国共両軍の衝突は、翌年六月、国民政府による総攻撃命令によって、
本格的な内戦となったのである。
今津晃 「概説現代史」
P.268この本を入手
引用四六年七月に全面的な内戦がはじまってからの約一年間は、
国民党軍が圧倒的な勢いで進攻した。
総兵力四百三十万、そのうち米軍の最新装備をもつ正規軍が二百万、対する共産軍は百二十余万、
日本軍から奪った旧式装備が中心であった。
アメリカは国民政府に二十億ドルの援助を与えたほかに、軍事顧問団を派遣し、
余剰軍事物資を放出した。
空海軍は内戦のために移動する国民党軍を輸送した。
こうして国民党軍は十月に張家口を攻略し、蒋介石が南京の軍事会議で「五ヵ月以内に中共軍を全滅させる」
と発言したとおり、四七年三月には共産党が十年間「首都」としてきた延安をも占領し、
蒋介石の企図は実現するかに見えた。
しかしこの華々しい戦果は、共産軍の「予定」したものであった。
四六年七月、毛沢東は全党に向けて、@持久戦を準備せよ、A運動戦を中心とし、地域を固守するな、
B広範な人民大衆の支持を獲得せよ、と指示し、一時的に都市や解放区を放棄して深く敵を誘い込む方針をとったのである。
多くの都市と交通要路を占領した国民党軍は、日本軍と全く同様に「点と線」を保持するだけで、
兵站線は延び、兵力は分散することを余儀なくされた。
共産軍は敵軍が薄弱になったと見るとすかさず反撃を加え、徐々に国民党軍の戦力を奪い、
大都市に封じ込めていった。
小島晋治・丸山松幸 「中国近現代史」
P.193この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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