幣原内閣改造
1946/01/13
公職追放された閣僚だけとっかえて、幣原内閣、再起動。
    
1946/01/01   天皇、人間宣言 (神格化否定の詔書)
1946/01/04   GHQ、軍国主義者の公職追放などを指令
1946/01/13   幣原内閣改造
1946/01/24   幣原・マッカーサー会談
1946/02/17   金融緊急措置令 (新円発行・旧円の預貯金封鎖)
1946/02/19   天皇、地方巡幸開始
1946/03/03   物価統制令公布
1946/03/06   政府、憲法改正草案要項を発表
1946/04/10   総選挙[22] (自由141、進歩94、社会93、協同14、共産5、他119)
1946/04/22   幣原内閣総辞職
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用松村と次田は総理の病床に報告し、閣議の意向を伝えて翻意を求めた。 しかし、「知られるとおり総理大臣は、一度こうと言いだしたらなかなか主張を撤回されぬ性格」と次田が危惧した通り、 「どうしてもきかない」。 そこで松村が返問した。 総理のお言葉はもっともであるが、後はどうするのか。 総辞職すれば元老も内大臣もなく枢密院も傾いた今日の事態では、総理に対し後継についての御下問があろう。 誰を奏請するのか。 「良心をもって奉答しうる」候補者がいるのか。 幣原はほとんどの指導者が追放に該当する事態での人選難を嘆きつつも「枢密顧問官の三土忠造君」の名をあげた。 それに対し松村は反問する。

「・・・・・・いま日本の時局は存亡の重大危機である。 内閣総理大臣たる資格に第一の条件としては、国際的知識と経験とをあげなければならない。 これは国家の興廃にかかる大事である。 いかにも三土氏は財政通として知られているが、かつて国際外交の知識経験者であることを聞かぬ。 はたして国政を担当しうるか。 御下問にたいして、貴下は良心をもって安心して奏請しうるかどうか・・・・・・」と言うと、 幣原さんはほろほろと涙を流して泣き、「そう言われると熱湯を飲まされる思いがする。 胸の中が熱くなる・・・・・・」と言って、二、三十分も沈黙していたが、 それからようやく「一身の事にかかわるべき場合でない。 諸君の要請に答えて留任することにする」と翻意する旨を明らかにした。(松村『三代回顧録』)

幣原とその内閣は「失意の淵に沈淪」していた。 戦争をなんとか生き延びた七十三歳の老人が発奮して重責を帯びたのはよかったが、 三か月にして無理がたたり病に倒れた。 マッカーサーからペニシリンをプレゼントされて、なんとか一命はとりとめた。 死なせぬようにしておいて、マッカーサーは公職追放の痛棒をくらわせた。 一体、マッカーサー幣原政権を生かしたいのか殺したいのか。 上げたり下げたり弄ばれて、幣原は病床で怒り、閣僚たちの内閣改造論を斥けて総辞職を十日には決心したようであった。 しかし、東久邇内閣と違って、そのまま総辞職とはならず、再浮上することになった。
引用幣原内閣の深刻な問題は、次田書記官長はじめ、松村農相、堀切内相、前田文相ら見識ある重要閣僚が追放に該当しそうなことであった。 首相不在の臨時閣議は、追放閣僚のみを代える内閣改造で乗り切ることを方針とした。 病床の幣原首相は、次第にマッカーサーの仕打ちに憤りをつのらせ、ついに十一日には内閣総辞職の意向を閣議に伝えた。 天皇およびマッカーサー幣原首相を信任し、改造によって政権を続けるよう求めていたが、老首相は聞かなかった。 しかし、閣議において松村農相が総辞職反対論をリードし、次田書記官長とともに病床の首相を訪ねた。 この国家存亡の重大危機にあって、あなたは後任首相として誰を陛下に奏薦するのか、良心をもって推せる者がいるのか、 と松村は迫った。 幣原三土忠造という財政に通じた長老の名を挙げたのに対し、松村は氏が「国際外交の知識経験者であることを聞かぬ」と反問した。 幣原首相は長い沈黙のあと落涙して、政権に留まると、翻意を告げた。
このエピソードが運命的な意味をもった。 失意の淵より再起した幣原首相が、新憲法を成立させる役割を担うからである。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「幣原内閣」は「幣原喜重郎内閣」と同じ意味です。