全官公庁労組共闘委員会、「2・1ゼネスト」を宣言
1947/01/18
ぼくらの給料もあげてくれ。 公務員たちが国にゼネストをつきつけた。
    
1946/05/16   吉田茂に組閣命令
1946/05/19   食糧メーデー (飯米獲得人民大会開催)
1946/05/20   マッカーサー、「暴民デモ許さず」と声明
1946/05/22   吉田内閣@成立 (首相:吉田茂
1947/01/01   吉田首相、ラジオで一部労働運動指導者を「不逞の輩」と非難
1947/01/18   全官公庁労組共闘委員会、「2・1ゼネスト」を宣言
1947/01/31   吉田内閣@改造
1947/01/31   マッカーサー、「2・1ゼネスト」中止を命令
1947/04/20   参議院選挙[1] (社会47、自由39、民主29、国協10、共産4、他121)
1947/04/25   総選挙[23] (社会143、自由131、民主124、国協31)
1947/05/20   吉田内閣@総辞職
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用二・一ゼネストは、【中略】 中労委(委員長末広巌太郎)が、昨二十一年(一九四六)十二月、調停案をつくって、 全逓、国鉄、政府に提示したところが、まず全逓、国鉄がこれを拒否し、「実力をもって闘う」と声明をしたところに発していた。
吉田内閣もまた石橋蔵相が、全官公庁職員の要求に対しては、拒否の態度をとりつづけた。
労働側は、全官公庁労組の闘争を強化し、産別が中心になり、組織労働者の九九パーセント、 五百万人余を結集し、全国労組共同闘争委員会をこしらえた。 明けて一月十八日は、全官公庁共同闘争委員会が、ゼネスト宣言拡大共闘委を開いて、
「われら二百六十万の全官公庁労働者は、二月一日午前零時を期して決然として立ち、 全国いっせいにゼネストに突入する」という闘争を宣言した。
このストに対する政府側の交渉責任者は、石橋湛山蔵相であった。 全官公労の団体交渉とはいっても、当時は尖鋭化していた共産党が、いわゆる“吊し上げ戦術”で迫る時代であった。 石橋はその吊り上げに動ずることなく、共産党を向こうにまわして、平然と構え、一歩も譲らなかった。
中労委の労働者側委員は、社会党右派の西尾末広、松岡駒吉、社会党左派の荒畑寒村、共産党の徳田球一であった。 社会党のなかでは、左派がゼネスト賛成で共産党と組み、右派は、ゼネストには反対であった。西尾は、
「ゼネストは凶器だ。相手を斬ることができても、同時にみずからも傷つく。 村正の妖刀だ」と警告を放った。この新聞談話に対して共産党は、
「労働者の正当な権利であるストライキを凶器とは何事だ」と食ってかかった。
日本の労働運動はじめての大闘争であるだけではなく、世界の労働運動史においても、記録的な大闘争になるといわれたこの闘争は、 二月一日に至るまでの約半月間、全国的に争議に次ぐデモ、デモに次ぐ争議で、いたるところに赤旗がひらめき、 労働歌がとどろいて、まさに一般には“革命前夜”の印象を与えたものである。 事実、共産党の細谷産別事務局長は、
徳田野坂鈴木、加藤が首相官邸に乗り込んで、吉田首相に総辞職を勧告し、吉田総辞職のあと、 社共連立内閣をつくる」という計画を考えていた。
共産党の伊東律などは、
「その内閣は松本治一郎首相(社会党左派)、徳田球一内相(共産党)、野坂参三外相(共産党)、 伊東律農相(共産党)、鈴木茂三郎蔵相(社会党左派)、加藤勘十運輸相(社会党左派)、志賀義雄書記官長(共産党)・・・・・・」と、 閣僚名簿まで用意していたほどである。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。