全官公庁労組共闘委員会、「2・1ゼネスト」を宣言 1947/01/18
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク
ああああああ
引用二・一ゼネストは、【中略】 中労委(委員長末広巌太郎)が、昨二十一年(一九四六)十二月、調停案をつくって、
全逓、国鉄、政府に提示したところが、まず全逓、国鉄がこれを拒否し、「実力をもって闘う」と声明をしたところに発していた。
吉田内閣もまた石橋蔵相が、全官公庁職員の要求に対しては、拒否の態度をとりつづけた。
労働側は、全官公庁労組の闘争を強化し、産別が中心になり、組織労働者の九九パーセント、
五百万人余を結集し、全国労組共同闘争委員会をこしらえた。
明けて一月十八日は、全官公庁共同闘争委員会が、ゼネスト宣言拡大共闘委を開いて、
「われら二百六十万の全官公庁労働者は、二月一日午前零時を期して決然として立ち、
全国いっせいにゼネストに突入する」という闘争を宣言した。
このストに対する政府側の交渉責任者は、石橋湛山蔵相であった。
全官公労の団体交渉とはいっても、当時は尖鋭化していた共産党が、いわゆる“吊し上げ戦術”で迫る時代であった。
石橋はその吊り上げに動ずることなく、共産党を向こうにまわして、平然と構え、一歩も譲らなかった。
中労委の労働者側委員は、社会党右派の西尾末広、松岡駒吉、社会党左派の荒畑寒村、共産党の徳田球一であった。
社会党のなかでは、左派がゼネスト賛成で共産党と組み、右派は、ゼネストには反対であった。西尾は、
「ゼネストは凶器だ。相手を斬ることができても、同時にみずからも傷つく。
村正の妖刀だ」と警告を放った。この新聞談話に対して共産党は、
「労働者の正当な権利であるストライキを凶器とは何事だ」と食ってかかった。
日本の労働運動はじめての大闘争であるだけではなく、世界の労働運動史においても、記録的な大闘争になるといわれたこの闘争は、
二月一日に至るまでの約半月間、全国的に争議に次ぐデモ、デモに次ぐ争議で、いたるところに赤旗がひらめき、
労働歌がとどろいて、まさに一般には“革命前夜”の印象を与えたものである。
事実、共産党の細谷産別事務局長は、
共産党の伊東律などは、
「その内閣は松本治一郎首相(社会党左派)、徳田球一内相(共産党)、野坂参三外相(共産党)、
伊東律農相(共産党)、鈴木茂三郎蔵相(社会党左派)、加藤勘十運輸相(社会党左派)、志賀義雄書記官長(共産党)・・・・・・」と、
閣僚名簿まで用意していたほどである。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.244この本を入手
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