ケーディス民政局次長辞任
1949/05/03
流れは変わった。 冷戦の本格化で、「GHQ左派」のケーディス、静かに辞表提出。
    
1945/08/30   マッカーサー厚木到着
1946/02/03   マッカーサー、GHQ民政局に日本憲法草案作成を指示 (02/10 完成)
1947/11/04   片山首相、平野農相を解任
1948/10/14   山崎猛(民自党)、議員辞職 (山崎首班問題収束)
1948/12/23   衆議院、内閣不信任案可決 (→衆議院解散)
1949/05/03   ケーディス民政局次長辞任
1949/07/04   マッカーサー、「日本は共産主義進出阻止の防壁」と声明
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用第二次吉田内閣成立からまだ二月も経たぬ一九四八年十二月八日、ケーディス民政局次長は、 キャンプ座間の基地から一人アメリカへ向けて旅立つ。 荷物は肩からかけたカバン一つだけだった。 今日まで広くいわれてきたことは、ケーディスは昭電汚職にかかわった容疑と、鳥尾元子爵夫人とのラブ・アフェアによって失脚し、 さびしく帰国したということだが、それは事実とは異なる。 ケーディス自身の語るところによれば、彼はマッカーサーの命令を受けて、ワシントンに赴き、 本国政府による対日占領政策の変更に歯止めをかける努力をしたのだという。 彼の敵手ウイロビーのいうところもそれを裏付ける。
「・・・・・・ケーディス大佐が、上司のホイットニー将軍のサインしたTO(旅行命令書)を持ってワシントン入りすることがわかった。 結果を先に記せば、ケーディスにとってはTDY(臨時勤務)のはずの訪問だったのだが、 それが“DEAD END”の旅になってしまうとは予想外のことであったに違いない」
「一九四八年に入るや、GSの対日政策に対するワシントン側の突きあげと政策転換を求めるような干渉が次第に強硬さを増してきた。 ケーディスとしては、この“ワシントンの干渉”をやわらげ、かつGSの方針をつらぬくための説得の必要に迫られた。 ワシントン出張は急を用[要]していたのである」
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。