池田蔵相ら渡米
1950/04/25
講和打診の密命をおびて池田蔵相、アメリカ本国へ。
    
1947/05/06   天皇・マッカーサー会談C
1949/03/07   ドッジ、経済安定9原則実施について声明 (ドッジライン)
1949/07/04   マッカーサー、「日本は共産主義進出阻止の防壁」と声明
1949/09/13   米英外相会談 (対日講和会議の早期開催に合意)
1949/11/01   アメリカ国務省当局筋、対日講和条件について検討中と言明
1949/12/04   社会党中央執行委員会、「講和問題に対する一般的態度」決定
1950/04/06   トルーマン(米)大統領、ダレスを対日講和担当の国務省顧問に任命
1950/04/25   池田蔵相ら渡米 (05/22 帰国)
1950/05/03   吉田首相、南原東大総長の全面講和論を「曲学阿世」論と非難
1950/06/21   ダレス来日 (〜06/27)
1950/06/25   朝鮮戦争勃発
1950/07/08   マッカーサー、吉田首相宛書簡で警察予備隊の創設などを指令
1950/08/10   警察予備隊令公布
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用渡米する池田蔵相吉田が携行させた覚書は、
「早期講和の後、日本およびアジア地域の安全保障のため、米軍が日本に駐留する必要があるのであろうが、 もしアメリカ側がその希望を申し出にくいならば、日本政府がそれをオファーする方法を研究してもよろしい。 この点について、憲法学者の研究を参照しているが、米軍駐留を講和条約中に規定できれば、憲法上問題は少ない。 別個の形で米軍駐留を約束することも、日本憲法に違反するものではない」というのであった。
その池田のワシントン到着は、二十五年(一九五〇)の四月二十七日であった。 随行したのは、秘書官の宮沢喜一(のち経企長官、外相、官房長官)であった。 大蔵省出身ながら英語に練達で、国際情勢にも通じている宮沢は、池田が各方面の人びとにあえるようにアレンジした。 まず池田が会ったのは、陸軍次官のヴォーリーズであった。
【中略】
つづいて会ったアイケルバーガーは、第一軍司令官として、日本にいた。
【中略】
池田はこの二人には、吉田の覚書を提出しなかった。 陸軍首脳に出したとあっては、国務省の機嫌を損ずるおそれがあった。
池田は宮沢と相談した結果、吉田覚書は、ドッジ公使に提出するのがよいと判断した。 ドッジは国務省では公使、陸軍省では顧問という肩書きであったからだ。 そのドッジ池田が会ったのは、五月三日の午後、そのオフィスであった。池田は、
「早期講和の声が、世論の上で強まりつつある。 だが共産党、社会党は、ソ連はじめ共産主義国家を加えた全面講和を主張している。 吉田内閣は、多数の国家が講和に加わるのを望んではいるが、かといって、ソ連の参加などを求めていけば、 いつ講和ができるかはかり難い。 その間、ソ連など日本を敵視する国まで参加している占領下に置かれる。 これはたえ難いことだ。 それに占領が長期にわたって継続すると、内政干渉や反米感情などが蓄積して、日米間に亀裂が入りかねない。 そうした実情から、吉田総理は早期講和を希望している」と述べ、覚書をドッジに手渡した。
それに目を通したドッジは、私見として、
「今、米ソ関係は、極端に悪化している。 そういうさい、日本を独立させるのは危険であるという軍事的配慮を、外交的配慮よりも優先させる。 これは、やむを得ない。 講和には反対ではないにしても、それが、ソ連に対するアメリカの軍事的立場を、弱める結果になってはならないと、 ワシントンでは考えている。 こうした状況が消えて、可能な条件がととのい、早い時期に講和ができる事態になるよう、自分は願っている」
二、三日たって、ドッジ池田の説明したところを文書にし、吉田首相覚書と合わせて、 国務次官バタース、国務省顧問ダレス、陸軍次官代理マグルーダー、総司令官マッカーサーに伝えることになる。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。