吉田首相、南原東大総長の全面講和論を「曲学阿世」論と非難
1950/05/03
曲学阿世:世間にへつらって真理を曲げること。 吉田首相が東大総長をそう非難した。
    
1947/05/06   天皇・マッカーサー会談C
1949/03/07   ドッジ、経済安定9原則実施について声明 (ドッジライン)
1949/07/04   マッカーサー、「日本は共産主義進出阻止の防壁」と声明
1949/09/13   米英外相会談 (対日講和会議の早期開催に合意)
1949/11/01   アメリカ国務省当局筋、対日講和条件について検討中と言明
1949/12/04   社会党中央執行委員会、「講和問題に対する一般的態度」決定
1950/04/06   トルーマン(米)大統領、ダレスを対日講和担当の国務省顧問に任命
1950/04/25   池田蔵相ら渡米 (05/22 帰国)
1950/05/03   吉田首相、南原東大総長の全面講和論を「曲学阿世」論と非難
1950/06/21   ダレス来日 (〜06/27)
1950/06/25   朝鮮戦争勃発
1950/07/08   マッカーサー、吉田首相宛書簡で警察予備隊の創設などを指令
1950/08/10   警察予備隊令公布
〜 あああ 〜
あああ
taro's トーク ああああああ
引用マッカーサーが共産党を攻撃すれば、吉田首相は全面講和論を攻撃した。 彼は、前年暮にアメリカで全面講和を主張した東大総長南原繁の言説をにくんでいた。 南原総長は、三月の卒業式においても、社会にでてゆく学生にむかって平和と全面講和を説いていた。 五月三日、自由党の両院議員秘密総会で演説した吉田首相は、「永世中立とか全面講和などということは、 いうべくしてとうていおこなわれないこと」であり、「それを南原総長などが政治家の領域にたちいってかれこれいうことは、 曲学阿世の徒にほかならないといえよう」と強調した。
南原総長は、五月六日、吉田首相に反論し、曲学阿世の徒などという「極印は、満州事変以来、美濃部博士をはじめわれわれ学者にたいし、 軍部とその一派によって押しつけられてきたもの」であり、 「学問の冒涜、学者にたいする権力的弾圧以外のものではない」と逆襲して吉田首相の「官僚的態度」を非難し、 「全面講和は国民の何人もが欲するところであって、それを理由づけ、国民の覚悟を論ずるは、 ことに私には政治学者としての責務である」と強調し、 「複雑変移する国際情勢のなかにおいて、現実を理想に近接融合せしめるために、英知と努力をかたむけることにこそ、 政治と政治家の任務がある」にもかかわらず、「それをはじめから曲学阿世の徒の空論として、 全面講和や永世中立論を封じ去ろうとするところに、日本の民主政治の危機の問題がある」と声明した。 吉田首相は、八日、記者団と会見して「南原君が反論しようとしまいと、それは当人の勝手で、 私の知ったことではない」とうそぶき、「日本としては事実上アメリカなどとの単独講和はすでにできている」のだから、 「これを法的に講和にもってゆくべきだ」と主張した。 吉田首相の態度は、まさに官僚的であり、国民との対話をみずから拒否していた。
吉田首相の官僚的態度は、幹事長佐藤栄作の官僚的態度によって倍化されていた。 佐藤は、南原総長の声明にたいし「党は政治的観点から現実的な問題として講和問題をとりあげているのであって、 これは南原氏などにとやかくいわれるところではない」と反論し、 「もとより学問の自由は尊重するが、この問題はすでに政治の問題になっているので、 ゾウゲの塔にある南原氏が政治的表現をするのは日本にとってむしろ有害である」と強調した。 彼は、「政治の問題になっている」からこそ国民が政治にたいして発言するのだという民主主義の原理を知らなかった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。