|
荒木 貞夫 1877 − 1966
[ あらき・さだお ]
陸相、文相、陸大校長、憲兵司令官、陸軍大将、A級戦犯
エピソード 1調査中。
語録
ばかを言え! 一升や二升のはした酒で酔っぱらう荒木貞夫だと思うか。
今日は貴様とのみくらべだ。
語録
シベリア事変のだらしなさに憤慨した私は、意見を具申したことが原因で、現地からよびもどされた。
そして熊本の連隊長として転任した。
三年間欧州の戦場でむこうの兵隊ばかりを見てきた私の眼には「これが祖国の兵隊か」とおもうと、泣きたいくらい。
新兵器らしいものはなにもない。
板を叩いて機関銃攻撃に模し、竹トンボをとばして飛行機が飛んできたと、その竹トンボ目標に小銃の射撃をやっている。
戦車となると大きな竹籠のようなものに新聞紙を貼り、これに迷彩を施して、
二本の竹捧で兵隊が二人でかついで来て「戦車来襲」と叫ぶ。
評
荒木貞夫という将軍は、明治以来の軍人のなかで全く異色の人であった。
頭脳明晰、博識多才、能弁で説得力があったから人を惹きつけた。
しかも誰にでも胸襟を開いて赤心を吐露したから、その門を訪れる人が多かった。
昭和六年の内外多事の秋、この人をこそと青年将校たちに崇拝され、期待されたのである。
菅波三郎 (元陸軍大尉)
引用荒木は皇道派の先頭に立っている人物であり、
生来の陽気な性格から国粋主義を吹聴していたので、青年将校たちの人気を集めるようになった。
荒木が陸相になったとき、青年将校たちの期待は非常なもので、すぐにも荒木が劃期的な革新を断行すると思っていた。
また、一方、政党や財界は、荒木なら部内の急進分子を抑えることができると期待した。
ここに荒木の人気の矛盾があった。
荒木の没落は、こうした矛盾のためである。
結局、彼は両方とも満足させることができなかったのである。
松本清張 「昭和史発掘(6)」
P.235この本を入手
引用荒木はただの士族ではない。
御三卿の一つである一橋家の士族である。
超然として武士道精神を貫く文武両道の環境に育っている。自ら備わる気品もある。
頭もいい。剣道の達人でもある。
【中略】 こちこちの軍人精神の塊で、一直線の荒木という男は、単純であり子供っぽい。
愚直の若殿といった感じである。
今日の言葉でいえば、少々アナクロで漫画チックである。
真っ正直の世間知らずでもある。
一歩引いて見つめれば、優越感と親近感をくすぐることにもなる。
升本喜年 「軍人の最期」
P.154この本を入手
引用荒木は演説が得意で、国体精神の昂揚を説き、満州事変の意義を強調し、
国政の改革を論ずる。
盛んに新聞、雑誌にも取り上げられ、荒木の古武士的日本主義の雰囲気と演説は、満州事変後のこの時期、
軍国的気分と軍国主義昂揚の波に乗って、爆発的喝采を浴びた。
荒木の外人記者相手の「日本は竹槍千万本あれば、列強恐れるに足らず」という「竹槍論」や
雑誌社(改造社)の招聘で来日したイギリスの文豪バーナード・ショーとの対談で度胆を抜いたと伝えられる
「古来、日本人は地震によって、強靭な国民性を養われて来た」という「地震論」などの派手な国防論は、
尾鰭をつけて広がり伝説とさえなった。
荒木の精神主義強調と野党的言動、それに上下の枠を越えた青年将校らとの接し方は、
彼らに抜群の人気があった。
升本喜年 「軍人の最期」
P.161この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
|