秋山 真之 1868 − 1918
[ あきやま・さねゆき ]
海軍軍務局長、連合艦隊作戦参謀、海軍中将、秋山好古の弟
エピソード 1秋山真之といえば、日本海海戦に臨んでの
「皇国の興廃この一戦にあり各員一層奮励努力せよ」の起草者としても有名だが、子供の頃からその文才を発揮していた。
学生時代には、親友正岡子規と、ともに筆で名を上げようと誓いあったほどである。
雪の日に北の窓あけシシすれば あまりの寒さにチンコちぢまる は、ご幼少の頃の作品。おいおい、窓から立ちしょんべんするなよ。 思わずそうつっこみたくなる写実性はさすが。
引用日露戦争に、連合艦隊先任参謀として参加した秋山は、戦争の勝敗、人間の生死に、人間力を超えるナニモノかの力を感じた。
これを天佑、あるいは戦運ということばだけではかたづけられず、戦後すぐ霊力研究をはじめ、やがて宗教研究に入った。
はじめは神道であった。
神道家川面凡児に教えを受け、二人で皇典研究会というものまで設立した。
しかし、神道だけでは足らず仏教研究にうつった。
小笠原長生や佐藤鉄太郎らの日蓮宗団体天晴会に入り、観音経を身につけるようになった。
のちのことだが、死にぎわには般若心経を唱える。
秋山は、戦術研究のときに海賊戦法に熱中したように、大本教や「池袋の神様」などの新興宗教研究にも熱中した。
ただし、これからは得るものがなく、失望して仏教研究にもどった。
特定の宗教に帰依するようなことはなかった。
さまざまの宗教を研究し、そこからこれと思える宗教原理をつかもうとした。
秋山の長男大は、秋山の死後、
「世間が誤解しているように、大本教という宗教にカブレて毒されたということはないはずです。
父の宗教にたいする態度は結局において批判的でした。
世間ではなんと評そうと、父の宗教にたいする思想には一貫した条理がありました」
と語った。
親しくしていた山本英輔(兵学校第二十四期、連合艦隊司令長官、大将)は、
「秋山さんは宗教に入りきるには、あまりに理性がありすぎた。
宗教に没入してしまいたいにしても、最後の一分というところで入りきれずに悩んでいたのではないかと思う」
と語った。
秋山は、理でつきつめられる戦術とはちがい、理でつきつめられない宗教では、
ついに秋山流の原理をつかむことはできなかったようである。
生出寿 「知将 秋山真之」
P.365この本を入手
引用ロシアと戦うにあたって、どうにも日本が敵しがたいものがロシア側に二つあった。
一つはロシア陸軍において世界最強の騎兵といわれるコサック騎兵集団である。
いまひとつはロシア海軍における主力艦隊であった。
運命が、この兄弟にその責任を負わせた。
兄の好古は、世界一脾弱な日本騎兵を率いざるをえなかった。
騎兵はかれによって養成された。
かれは心魂をかたむけてコサックの研究をし、ついにそれを破る工夫を完成し、少将として出征し、
満州の野において悽惨きわまりない騎兵戦を連闘しつつかろうじて敵をやぶった。
弟の真之は海軍に入った。
「智謀湧くがごとし」といわれたこの人物は、少佐で日露戦争をむかえた。
それ以前からかれはロシアの主力艦隊をやぶる工夫をかさね、その成案を得たとき、
日本海軍はかれの能力を信頼し、東郷平八郎がひきいる連合艦隊の参謀にし、三笠に乗り組ませた。
東郷の作戦はことごとくかれが樹てた。
作戦だけでなく日本海海戦の序幕の名口上ともいうべき、
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス。
本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
という電文の起草者でもあった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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