秋山 真之
1868 − 1918
[ あきやま・さねゆき ]
海軍軍務局長、連合艦隊作戦参謀、海軍中将、秋山好古の弟
一覧 (ア) 本を入手生出寿著
エピソード 1秋山真之といえば、日本海海戦に臨んでの 「皇国の興廃この一戦にあり各員一層奮励努力せよ」の起草者としても有名だが、子供の頃からその文才を発揮していた。 学生時代には、親友正岡子規と、ともに筆で名を上げようと誓いあったほどである。
  雪の日に北の窓あけシシすれば あまりの寒さにチンコちぢまる
は、ご幼少の頃の作品。おいおい、窓から立ちしょんべんするなよ。 思わずそうつっこみたくなる写実性はさすが。
・ 松山藩士の子に生まれる。海兵卒。
・ アメリカ留学イギリス駐在後、常備艦隊参謀となる。
・ 日露戦争では、連合艦隊兼第1艦隊参謀として、黄海海戦、日本海海戦などの作戦を担当。
・ 海軍きっての戦略家で、「丁字戦法」などの発案者とされる。
・ 戦後、海軍大学校教官、海軍省軍務局長となるも、病没。
1903/12/28   連合艦隊編成 (司令長官:東郷平八郎
1904/02/06   連合艦隊、佐世保出航
1904/02/08   連合艦隊の駆逐艦隊、旅順口のロシア艦隊を夜襲攻撃
1904/02/09   仁川沖海戦
1904/02/10   対露宣戦布告 (日露戦争勃発)
1904/02/24   旅順口閉塞作戦@
1904/03/27   旅順口閉塞作戦A
1904/03/29   海軍省、旅順口閉塞作戦Aを詳報 (広瀬中佐の美談)
1904/05/03   旅順口閉塞作戦B
1904/08/10   黄海海戦
1904/08/14   蔚山沖海戦
1905/05/27   日本海海戦 (〜05/28/連合艦隊司令長官:東郷平八郎
1905/09/05   ポーツマス条約調印 (首席全権:小村寿太郎日露戦争終結)
1905/10/23   海軍凱旋式 (東京湾)
1912/07/29   明治天皇崩御
1914/01/23   シーメンス事件発覚 (島田三郎、国会で海軍高官の収賄を追及)
1914/05/11   海軍人事大異動発令 (山本前首相斉藤前海相を予備役に編入)
1914/05/29   海軍軍法会議、シーメンス事件に有罪判決
1914/07/28   オーストリア、セルビアに宣戦布告 (第一次世界大戦勃発)
1914/09/02   青島出兵 (日本軍、山東半島上陸開始)
引用日露戦争に、連合艦隊先任参謀として参加した秋山は、戦争の勝敗、人間の生死に、人間力を超えるナニモノかの力を感じた。
これを天佑、あるいは戦運ということばだけではかたづけられず、戦後すぐ霊力研究をはじめ、やがて宗教研究に入った。
はじめは神道であった。 神道家川面凡児に教えを受け、二人で皇典研究会というものまで設立した。
しかし、神道だけでは足らず仏教研究にうつった。 小笠原長生や佐藤鉄太郎らの日蓮宗団体天晴会に入り、観音経を身につけるようになった。 のちのことだが、死にぎわには般若心経を唱える。
秋山は、戦術研究のときに海賊戦法に熱中したように、大本教や「池袋の神様」などの新興宗教研究にも熱中した。 ただし、これからは得るものがなく、失望して仏教研究にもどった。
特定の宗教に帰依するようなことはなかった。 さまざまの宗教を研究し、そこからこれと思える宗教原理をつかもうとした。
秋山の長男大は、秋山の死後、
「世間が誤解しているように、大本教という宗教にカブレて毒されたということはないはずです。 父の宗教にたいする態度は結局において批判的でした。 世間ではなんと評そうと、父の宗教にたいする思想には一貫した条理がありました」
と語った。
親しくしていた山本英輔(兵学校第二十四期、連合艦隊司令長官、大将)は、
「秋山さんは宗教に入りきるには、あまりに理性がありすぎた。 宗教に没入してしまいたいにしても、最後の一分というところで入りきれずに悩んでいたのではないかと思う」
と語った。
秋山は、理でつきつめられる戦術とはちがい、理でつきつめられない宗教では、 ついに秋山流の原理をつかむことはできなかったようである。
引用ロシアと戦うにあたって、どうにも日本が敵しがたいものがロシア側に二つあった。 一つはロシア陸軍において世界最強の騎兵といわれるコサック騎兵集団である。
いまひとつはロシア海軍における主力艦隊であった。
運命が、この兄弟にその責任を負わせた。 兄の好古は、世界一脾弱な日本騎兵を率いざるをえなかった。 騎兵はかれによって養成された。 かれは心魂をかたむけてコサックの研究をし、ついにそれを破る工夫を完成し、少将として出征し、 満州の野において悽惨きわまりない騎兵戦を連闘しつつかろうじて敵をやぶった。
弟の真之は海軍に入った。
「智謀湧くがごとし」といわれたこの人物は、少佐で日露戦争をむかえた。
それ以前からかれはロシアの主力艦隊をやぶる工夫をかさね、その成案を得たとき、 日本海軍はかれの能力を信頼し、東郷平八郎がひきいる連合艦隊の参謀にし、三笠に乗り組ませた。 東郷の作戦はことごとくかれが樹てた。 作戦だけでなく日本海海戦の序幕の名口上ともいうべき、
「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、聯合艦隊ハ直ニ出動、之ヲ撃滅セントス。 本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」
という電文の起草者でもあった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。