ウインストン・チャーチル 1874 − 1965
首相(保守党)、海相、蔵相、内相、保守党党首、下院議員、「モーニングポスト」記者 / イギリス
エピソード 1調査中。
引用かれは一八八八年に陸軍士官学校を卒業後、九八年インドへ出征、九九年ブール戦争に従軍、
その後内相、植民相などをつとめ、ロシア革命以後は一貫して反共の闘士であった。
一九三九年九月、大戦勃発と同時に海相、四〇年チェンバレン辞職後首相となり、労働党の協力を求めて戦時内閣を組織し、
国防相を兼ねて大戦を指導した。
木村英亮 「二〇世紀の世界史」
P.132この本を入手
引用チャーチルは、保守党革新派の政治家ランドルフ・チャーチルの長男として、
オックスフォード近くの壮麗な屋敷「ブレナム・パレス」に生まれた。
七歳で有名なパブリック・スクールのひとつハロー校に入学。
あまり優秀な生徒ではなかったが、彼は英語が得意科目で、個人の実力が発揮される水泳やフェンシングといったスポーツを好んだ。
この頃身につけた作文の能力は、チャーチル自ら執筆した多くの名演説で、人びとを魅了する政治家として彼の名声を高めただけでなく、
従軍記者や多作な文筆家(一九五三年にノーベル文学賞を受賞)として多方面に活躍したチャーチルの、生涯の宝物となった。
一八九五年にサンドハースト陸軍士官学校を終えた後、チャーチルはキューバやインドでの反乱の鎮圧や、
スーダン進出、ボーア戦争など世紀転換期の帝国主義戦争の数々を、主に従軍記者として経験した。
彼はそれらへの従軍体験記を出版して世にその名を知らしめ、一九〇〇年、保守党の下院議員として初当選をはたした。
だがチャーチルの政治家としての第一歩は、自由党とともに始まった。
彼は一九〇四年に自由党に移籍し、植民相次官、商相、内相にくわえて陸海軍の大臣という要職を歴任したが、その間、
労使協議会や労働紹介所を設置し、人民予算の立法化を支持して社会変革を推進した。
また、一四年に勃発した第一次世界大戦下には、海軍力の増強を断行しドイツの脅威に備えるとともに、
航空戦の到来を見通して空軍の育成にも力を入れた。
しかし、ダーダネルス海峡進攻作戦の失敗(一九一五)を厳しく批判されて第一線から退いたチャーチルは、
水彩画を楽しみながら次なる出番を待った。
一七年の夏、盟友ロイド・ジョージの連立内閣に軍需相として復帰。
二二年に下野するまでの間、彼は、大衆の時代を迎えた戦後イギリスの処理にあたる一方、「反共」を唱えて革命ロシアへの干渉を指導した。
一九三九年秋、イギリスは第二次世界大戦に突入した。
再び海相として入閣したチャーチルは、翌四〇年、首相に就任し、挙国体制を整えてナチス・ドイツ軍との戦いの陣頭指揮をとった。
国民総力戦が必須であることは、先の大戦の最も重要な教訓であった。
チャーチルは、国民の生活の一部となったラジオ、そして議会演説をつうじて、
ヨーロッパを震撼させるファシズムの脅威打倒をスローガンに、熱弁をふるって大衆に戦争協力を呼びかけた。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「ウインストン・チャーチル」は「ウィンストン・チャーチル」とも表記されることがあります。 |