ウインストン・チャーチル
1874 − 1965
首相(保守党)、海相、蔵相、内相、保守党党首、下院議員、「モーニングポスト」記者 / イギリス
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1899/10/12   南ア戦争勃発 (〜1902/04/08)
1914/07/28   オーストリア、セルビアに宣戦布告 (第一次世界大戦勃発)
1916/12/04   ロイド・ジョージ戦時内閣成立 (英/外相:バルフォア)
1919/06/28   ベルサイユ条約調印 (北京政府、調印拒否)
1938/03/13   ドイツ、オーストリア併合
1938/09/29   ミュンヘン会談
1939/08/12   英仏ソ3国軍事協定交渉開始 (〜08/21/モスクワ)
1939/08/23   独ソ不可侵条約締結
1939/09/01   ドイツ軍、ポーランド侵攻開始 (第二次世界大戦勃発)
1939/09/03   英仏、対独宣戦布告
1939/09/03   チェンバレン内閣改造 (海相:チャーチル
1940/05/10   ドイツ軍、西部戦線に総攻撃開始
1940/05/10   チャーチル内閣成立 (英)
1940/05/27   イギリス軍、ダンケルク撤退開始 (06/04 撤退完了)
1940/06/22   フランス(ペタン政府)降伏
1941/08/14   大西洋憲章 (米英共同宣言)
1941/12/08   ハワイ奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)
1941/12/10   マレー沖海戦
1942/02/15   シンガポール攻略
1943/01/14   カサブランカ会談 (〜01/25)
1943/11/22   カイロ会談 (〜11/26)
1943/11/28   テヘラン会談 (〜12/01)
1944/06/06   連合軍、ノルマンディー上陸作戦開始 (オーバーロード作戦)
1945/02/04   ヤルタ会談 (〜02/11)
1945/05/07   ドイツ、無条件降伏 (ベルリン陥落)
1945/07/17   ポツダム会談 (〜08/02)
1945/07/26   チャーチル内閣総辞職 (07/05の総選挙で保守党敗北/英)
1946/03/05   チャーチル、「鉄のカーテン」演説 (米・ミズーリ州フルトン)
1948/06/24   ベルリン封鎖 (〜49/05/12)
1949/04/04   NATO(北太平洋条約)調印
引用かれは一八八八年に陸軍士官学校を卒業後、九八年インドへ出征、九九年ブール戦争に従軍、 その後内相、植民相などをつとめ、ロシア革命以後は一貫して反共の闘士であった。 一九三九年九月、大戦勃発と同時に海相、四〇年チェンバレン辞職後首相となり、労働党の協力を求めて戦時内閣を組織し、 国防相を兼ねて大戦を指導した。
引用チャーチルは、保守党革新派の政治家ランドルフ・チャーチルの長男として、 オックスフォード近くの壮麗な屋敷「ブレナム・パレス」に生まれた。 七歳で有名なパブリック・スクールのひとつハロー校に入学。 あまり優秀な生徒ではなかったが、彼は英語が得意科目で、個人の実力が発揮される水泳やフェンシングといったスポーツを好んだ。 この頃身につけた作文の能力は、チャーチル自ら執筆した多くの名演説で、人びとを魅了する政治家として彼の名声を高めただけでなく、 従軍記者や多作な文筆家(一九五三年にノーベル文学賞を受賞)として多方面に活躍したチャーチルの、生涯の宝物となった。
一八九五年にサンドハースト陸軍士官学校を終えた後、チャーチルはキューバやインドでの反乱の鎮圧や、 スーダン進出、ボーア戦争など世紀転換期の帝国主義戦争の数々を、主に従軍記者として経験した。 彼はそれらへの従軍体験記を出版して世にその名を知らしめ、一九〇〇年、保守党の下院議員として初当選をはたした。
だがチャーチルの政治家としての第一歩は、自由党とともに始まった。 彼は一九〇四年に自由党に移籍し、植民相次官、商相、内相にくわえて陸海軍の大臣という要職を歴任したが、その間、 労使協議会や労働紹介所を設置し、人民予算の立法化を支持して社会変革を推進した。 また、一四年に勃発した第一次世界大戦下には、海軍力の増強を断行しドイツの脅威に備えるとともに、 航空戦の到来を見通して空軍の育成にも力を入れた。 しかし、ダーダネルス海峡進攻作戦の失敗(一九一五)を厳しく批判されて第一線から退いたチャーチルは、 水彩画を楽しみながら次なる出番を待った。 一七年の夏、盟友ロイド・ジョージの連立内閣に軍需相として復帰。 二二年に下野するまでの間、彼は、大衆の時代を迎えた戦後イギリスの処理にあたる一方、「反共」を唱えて革命ロシアへの干渉を指導した。
一九三九年秋、イギリスは第二次世界大戦に突入した。 再び海相として入閣したチャーチルは、翌四〇年、首相に就任し、挙国体制を整えてナチス・ドイツ軍との戦いの陣頭指揮をとった。 国民総力戦が必須であることは、先の大戦の最も重要な教訓であった。 チャーチルは、国民の生活の一部となったラジオ、そして議会演説をつうじて、 ヨーロッパを震撼させるファシズムの脅威打倒をスローガンに、熱弁をふるって大衆に戦争協力を呼びかけた。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「ウインストン・チャーチル」は「ウィンストン・チャーチル」とも表記されることがあります。