ジョルジュ・クレマンソー 1841 − 1929
首相、内相、パリ講和会議首席全権 / フランス
エピソード 1調査中。
引用医師の子に生まれたクレマンソーは、パリに出て医学生として学ぶうちに共和派の政治家や文人と知り合い、
一八六五年イギリスに渡ってジョン・スチュアート・ミルと知り合いその影響を受けた。
【中略】
ミルと別れたクレマンソーは、新聞記者としてアメリカに渡り、アメリカの婦人と結婚(一八六九)した。
この頃彼は共和主義、急進主義を唱えていた。
普仏戦争でナポレオン三世が降服し、第二帝制が倒れた後、彼は国防政府からモンマルトルの区長に任じられ抗戦継続を唱え、
七一年(明治四年)二月三十一歳でボルドーの国民議会の議員に選出され、屈辱的な講和条件に反対した。
パリ・コンミューンのときは中立的な立場から調停に奔走したが、激発を防ぐことは出来なかった。
七一年七月パリ市会議員に選出され、西園寺と知り合ったのはこの後である。
この後代議士となり、爆発的な議会演説によって政府を攻撃し、ガンベッタ、フュリーなどの大物内閣を次々に倒したので
“虎”という仇名をもらった。
豊田穣 「西園寺公望(上)」
P.96この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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