ジョセフ・M・ドッジ
1890 − 1964
日本占領軍経済顧問、デトロイト銀行頭取、ドイツ占領軍金融顧問、全米銀行協会会長 / アメリカ
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エピソード 1調査中。
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1945/05/07   ドイツ、無条件降伏 (ベルリン陥落)
1945/09/02   降伏文書調印 (全権:重光葵梅津美治郎/第二次世界大戦終結)
1946/03/05   チャーチル、「鉄のカーテン」演説 (米・ミズーリ州フルトン)
1947/06/05   マーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)発表
1948/05/18   アメリカ陸軍省、ドレーパー調査団報告を発表
1948/06/24   ベルリン封鎖 (〜49/05/12)
1949/02/01   ドッジ(GHQ経済顧問)ら来日
1949/03/01   池田・ドッジ会談
1949/03/07   ドッジ、経済安定9原則実施について声明 (ドッジライン)
1949/03/22   ドッジ、池田蔵相に昭和24年度予算案を内示
1949/04/04   NATO(北太平洋条約)調印
1949/04/25   1ドル360円の単一為替レート実施
1949/10/30   ドッジ再来日
1950/06/25   朝鮮戦争勃発
引用ドッジは内気で内省型の、世の注目は決して浴びないタイプの人間だった。 しかし銀行分野での有能さは世人から認められており、そのことが国内問題でも国際問題でも大きな権力を彼にもたせることになった。 しかし産業界や政府部内の同僚たちは、彼のことをほとんど認めていなかった。 一八九一年、ドッジはデトロイトの貧しいクエーカー教徒の芸術家の息子として生まれた。 大学には進学せず、高校卒業後、銀行にメッセンジャーとして勤め、事務や簿記をしていた。 一九一一年にミシガン州政府で証券と銀行の調整分野の仕事についた。 デトロイト銀行の創立者がドッジの能力に感心して、二〇年代初め、銀行の株式売買担当員として迎え入れた。 大恐慌の最中、ドッジはデトロイトのいくつかの銀行の合併と再編成を支援し、 三三年にミシガン州で一番歴史のあるデトロイト貯蓄銀行の頭取兼取締役に就任した。 彼は、固い仕事をするまじめ一方の銀行家という評判を獲得している。 ドッジの指導のもとで、デトロイト貯蓄銀行はデトロイト銀行として知られるようになり、 資産額も三六年の六〇〇〇万ドルから、ドッジが総司令部の財政顧問に任命された四八年には五億五〇〇〇万ドルへと急成長した。
デトロイト銀行の頭取室から、ドッジは自らの影響力を各方面に広げていった。 クライスラー社やスタンダード事故保険会社などの重役も兼任している。 ミシガン州銀行家協会や全米銀行家協会の委員会で何年も活躍した(一九四四年から四五年にかけて前者の会長を、 四七年から四八年にかけては後者の会長を務めた)。 同世代の多くの共和党員と同様に、政府関係の仕事は民主党政権下で行っている。 三七年にデトロイト代表として復興金融公社の諮問委員会に加わり、翌三八年にはシカゴ地区連邦準備銀行の総裁を六年の任期で務めた。 戦争中、ヘンリー・スチムソン陸軍長官の要請で、軍需契約委員会や価格調整委員会の委員長などいくつかの経済関係の役職についた。
ヨーロッパの戦争が終わると、ドッジはアメリカの世紀を築くための役回りを演じることになった。 ドイツの金融体制が崩壊した際、ドワイト・D・アイゼンハワーは、 「ドッジをドイツに早くよこせ」とワシントンに打電した。 ドッジは軍政長官ルシアス・クレイ将軍の経済顧問代理となり、デフレ的な通貨供給量削減を計画し、 一九四八年のベルリン封鎖を招いている。 四七年五月、ドッジはオーストリア平和条約委員会のアメリカ代表として国務省から派遣されてウィーンに行き、 オーストリア問題でジョージ・C・マーシャル国務長官に助言するためにいったんアメリカに帰国した。 四七年から五一年まで、マーシャル・プランの基金を扱う経済協力局(ECA)に対して財政・金融問題を諮問する委員会の委員でもあった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。