ドワイト・D・アイゼンハワー
1890 − 1969
大統領(共和党)、連合軍最高司令官、統合参謀本部議長、NATO軍最高司令官 / アメリカ
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1939/09/01   ドイツ軍、ポーランド侵攻開始 (第二次世界大戦勃発)
1941/12/08   ハワイ奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)
1942/11/08   連合軍、北アフリカ上陸開始
1943/01/14   カサブランカ会談 (〜01/25)
1943/07/10   連合軍、シシリー島上陸 (ハスキー作戦)
1943/07/25   バドリオ政権成立
1943/09/08   イタリア、無条件降伏
1944/06/06   連合軍、ノルマンディー上陸作戦開始 (オーバーロード作戦)
1944/08/25   連合軍、パリ入城 (ド・ゴール凱旋)
1945/05/07   ドイツ、無条件降伏 (ベルリン陥落)
1949/04/04   NATO(北太平洋条約)調印
1950/06/25   朝鮮戦争勃発
引用一八九〇年十月十四日、テキサス州デニソンの農場で、戦争と暴力を極端に拒否する敬虔なキリスト教復興主義者の一派「河川兄弟団」の一家に生まれる。 しばしば職業軍人は戦争を嫌う傾向があるといわれる。 アイゼンハワーの場合は職業軍人として異例の活躍をしたわけだが、生まれの宗派の影響で終生戦争嫌いであったことは有名である。 高校時代から「アイク」という愛称で親しまれ、一九一五年ウエストポイント(陸軍士官学校)を卒業、 若手の将校の頃、後年米国人全体から「マミー」の愛称で親しまれた、デンバーの富豪の令嬢メアリ・ジェネヴァ・ダウドと結婚、 二人の間に男子二人をもうけている。
士官学校卒業後、戦車隊の創設などで注目されてはいたが、第一次世界大戦では従軍の機会は与えられなかった。 彼は若手の参謀として作戦能力や企画力は評価されたが、パットン将軍やダグラス・マッカーサー元帥が表舞台で活躍するとき、 いつも日の当たらぬ場所にいた。 パナマやフィリピン勤務で三八年四十八歳になってもまだ中尉で、一時は退役を考えたという。
彼にチャンスが与えられたのは、第二次大戦。 参謀将校として慎重な作戦と緻密な兵站の必要性を説き、鋭い政治的感覚と思い切った決断で頭角を現した。 彼の能力をいち早く見抜いたのはジョージ・マーシャル将軍(後の国務長官)で、彼を陸軍参謀本部に引き抜いた。
四二年夏、米軍を率いて英国へ。 さらに北アフリカ、イタリア戦線で活躍した。 その間、四三年一月、欧州戦線の実情報告のためカサブランカへ飛び、ローズヴェルト米大統領チャーチル英首相に会っている。 その後、米陸軍では最高の名誉あるフォー・スター・ジェネラル(元帥)に昇進した。
なんといっても彼が名声を博したのは、 四四年六月六日(Dデイ)連合軍最高司令官としてナチス・ドイツに蹂躙されている欧州戦線で挽回すべく敢行したノルマンディー上陸作戦の大成功である。 その時アイゼンハワーが指揮した連合軍の上陸兵力は十六万、援護に当たった艦艇五千隻、空軍七千機。 二年がかりで立てたこの計画は空前の規模であり、これをきっかけに連合軍の反撃は本格的となり、 ナチス・ドイツの敗北をもたらした。 ドイツは十一ヵ月後無条件降伏して欧州戦線は収束する。
この作戦を立てたのはローズヴェルトチャーチルといわれているが、 実は上記のアイゼンハワーの両首脳に対するカサブランカ報告が大きく評価されたのだった。 こうして第二次大戦で大勝をおさめた連合国軍の最高の英雄はアイゼンハワー将軍となった。
【中略】
四八年に退役したが、すぐに要請され受諾したのはコロンビア大学総長。 だが教育者として新しい道を開こうとしたのもつかの間、ソ連との軍事対決が焦眉の急となり、 四九年に西側の集団安全保障機構として誕生した北大西洋条約機構(NATO)軍の最高司令官に迎え入れられた。 これまた落ち着かぬうちに、五二年の大統領選挙で共和党から同党候補に指名された。 同党はパリ近郊にあるNATO司令部に使節団を送り、大統領候補指名を受け入れるよう、アイゼンハワーを説き伏せたのだった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。