福沢 諭吉
1835 − 1901
[ ふくざわ・ゆきち ]
慶応義塾塾長、明六社社員、適塾塾長、中津藩士、幕臣
一覧 (ハ) 本を入手 
エピソード 1調査中。
・ 大阪府出身。中津藩蔵屋敷で生まれる。
・ 長崎に蘭学修業に出、また、大坂の緒方洪庵塾に入門。
・ 藩命で江戸中津藩屋敷に蘭学塾を開く。
・ 横浜に遊び蘭学の無力を痛感、英学に転向。咸臨丸に艦長の従僕として乗り込み渡米。
・ 幕府遣欧使節団の探索方としてヨーロッパ6ヵ国を歴訪。のち幕臣。
・ 「西洋事情」を執筆、刊行。
・ 家塾を改革、慶応義塾と称し、「商工農士の差別なく」洋学に志す者の学習の場とする。
・ 「学問のすゝめ」を刊行し、総発行部数340万部の大ベストセラーとなる。
・ 明六社に参加、「明六雑誌」などで文明開化の啓蒙活動を展開。「文明論之概略」を刊行。
・ 「脱亜論」を発表、アジア諸国を犠牲にしても日本が欧米列強に伍していく道を選ぶ。
1867/11/10   大政奉還 (慶応03年10月15日)
1894/08/01   清国に宣戦布告 (日清戦争勃発)
1901/01/01   19・20世紀送迎会開催 (慶応義塾)
1901/02/03   福沢諭吉
引用二十歳のとき砲術の修行をするために、長崎に行くことができました。 ほんとうは蘭学の勉強がめあてです。 ペリーが浦賀にやってきた翌年のことで、どの藩も西洋の砲術が一日も早く知りたかったのです。 中津藩も家老の息子と、そのおとも、ということで諭吉を長崎に出したのです。
ところが、この息子は、諭吉がみるみる蘭学が上達して評判になっていくのを見て、不愉快になりました。
とうとう諭吉を長崎から追い出してしまったのです。
諭吉は、そのまま大阪へ行って蘭学者・医師の緒方洪庵(一八一〇〜六三)の適塾に入りました。 この適塾は日本最高の塾でしたが、諭吉はすぐに力をみとめられ、三年目には塾長になりました。 二十四歳のことです。
諭吉をそまつに扱ってきた中津藩は、あわてて諭吉を重く用いようとしました。 江戸に出て蘭学塾を開けというのです。慶応義塾のそもそものはじまりです。
しかし、横浜へ行ったとき、もはや世界はオランダ語ではなく、英語の時代になっていることに気がつきました。 諭吉は、さっそく独学で英語の勉強をはじめました。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「福沢諭吉」は「福澤諭吉」とも表記されることがあります。