福沢 諭吉 1835 − 1901
[ ふくざわ・ゆきち ]
慶応義塾塾長、明六社社員、適塾塾長、中津藩士、幕臣
エピソード 1調査中。
引用二十歳のとき砲術の修行をするために、長崎に行くことができました。
ほんとうは蘭学の勉強がめあてです。
ペリーが浦賀にやってきた翌年のことで、どの藩も西洋の砲術が一日も早く知りたかったのです。
中津藩も家老の息子と、そのおとも、ということで諭吉を長崎に出したのです。
ところが、この息子は、諭吉がみるみる蘭学が上達して評判になっていくのを見て、不愉快になりました。
とうとう諭吉を長崎から追い出してしまったのです。
諭吉は、そのまま大阪へ行って蘭学者・医師の緒方洪庵(一八一〇〜六三)の適塾に入りました。
この適塾は日本最高の塾でしたが、諭吉はすぐに力をみとめられ、三年目には塾長になりました。
二十四歳のことです。
諭吉をそまつに扱ってきた中津藩は、あわてて諭吉を重く用いようとしました。
江戸に出て蘭学塾を開けというのです。慶応義塾のそもそものはじまりです。
しかし、横浜へ行ったとき、もはや世界はオランダ語ではなく、英語の時代になっていることに気がつきました。
諭吉は、さっそく独学で英語の勉強をはじめました。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「福沢諭吉」は「福澤諭吉」とも表記されることがあります。 |