ジョセフ・C・グルー 1880 − 1965
駐日大使、国務次官、国務省極東局長、国務省特別補佐官 / アメリカ
エピソード 1太平洋戦争開戦時の駐日アメリカ大使グルーは、
日本を本土決戦から救ったもう一人の立役者でもある。
日本の友人たちを戦争の困難から解放するため、アメリカ政府の中でほとんど孤軍奮闘に近い活躍をしたのが彼だ。
彼の書いたポツダム宣言の原案は、日本政府にとってもっと飲みやすいものだったし、
原爆投下を回避するため、スチムソン陸軍長官の説得も試みている。
引用ジョセフ・C・グルーは、一八八〇年ボストンで生まれた。
生家は裕福で、ボストンの名士という家柄である。
グロートン校からハーバード大学に進み、一九〇二年にハーバード大を卒業すると、外交官の職についた。
カイロの領事事務官として出発した若き外交官は、
「ボストンの名家」出身の妻と一緒に世界中を転々としたのち、ベルリンに約九年間駐在した。
アメリカが第一次世界大戦に参戦する前のことである。
パリ講和会議におけるアメリカ代表団の秘書としての仕事ぶりをウッドロー・ウィルソン大統領の顧問エドワード・M・ハウス大佐に認められたグルーは、
二〇年、公使に昇進した。
駐デンマーク公使、駐スイス公使となり、二二年から二三年にかけてトルコ問題を扱ったローザンヌ講和会議ではアメリカ代表を務めた。
ローザンヌ会議によって、練達した外交官としてのグルーの評価は確立し、
チャールズ・エバンズ・ヒューズ国務長官によって国務次官、理屈から言えば国務省のナンバー2の地位に選ばれた。
しかしヒューズは、グルーにつまらない仕事ばかり与えた。
後任のフランク・ケロッグ国務長官も同様だった。
グルーは国務省内の政策決定グループから急速に孤立していった。
専門的な外務職員局をつくろうという彼の計画は、議会からも世論からも厳しい批判を浴びた。
二七年の春、面子をつぶされた国務次官は駐トルコ大使に指名されたのを幸いにトルコに赴き、
以後五年間はその職に満足していた。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
|