ウォーレン・G・ハーディング 1865 − 1923
大統領(共和党)、上院議員 / アメリカ
エピソード 1調査中。
引用ハーディングは教員、保険の勧誘員、記者などを経験したあと、八四年に廃刊寸前の『マリオン・スター』紙を買い取り、
編集と経営に専念した。
九一年に結婚した五歳上のフローレンスには、若い時に別の男性と駆け落ちした時生まれた息子がいた。
温厚で気さくなハーディングは、新聞の仕事のかたわら地域の商工業や文化の推進にも積極的にかかわり、
人望を集めるようになった。
一八九九年にオハイオ州議会上院議員、一九〇三年に副知事になり、知事選の敗北後、一四年に連邦上院議員に選ばれた。
二〇年の共和党全国大会で、ハーディングを最初から大統領候補とみなしたのはオハイオ州の政治ボスたちくらいだったが、
有力候補者が対立しあうなかで、ハーディングが妥協の候補として浮上し、十回目の投票で指名を獲得した。
大統領選挙では民主党候補のジェームズ・コックスに圧勝した。
第一次世界大戦とウィルソン大統領の理想主義に疲れたアメリカ国民は、「平常への復帰」を唱える、平凡だが温厚で、
しかも大統領の風采を備えたハーディングに国の舵取りを託したのだった。
ハーディングの閣僚には、財務長官アンドルー・メロン、商務長官ハーバート・フーヴァー、
農務長官ヘンリ・ウォレス、国務長官チャールズ・エヴァンズ・ヒューズなど全国的に名の通った逸材がいた。 【中略】
他方ハーディングは、自分を大統領に担ぎ出した「オハイオ・ギャング」と呼ばれる旧知の政治家たちも政府の要職に任命した。
退役軍人局長チャールズ・フォーブスは、公金を流用し関連企業からリベートを受け取った。
ハリー・ドーハティが長官をつとめる司法省では、賄賂を渡すことで服役者の釈放や酒の密売がまかり通った。
一連の不正事件のなかでももっとも悪名高い「ティーポット・ドーム事件」では、内務長官アルバート・フォールが
ワイオミング州ティーポット・ドームとカリフォルニア州エルク・ヒルズにある海軍の油田を内務省に移管することをハーディングに認めさせ、
その後、油田を民間の石油業者に貸与して莫大な贈賄を受けた。海軍長官も連座した。
ハーディングが、自分の死後に明るみに出た一連の不祥事をどこまで知っていたかは定かではない。
しかし二三年の初めまでには、その一端に気づき始めていたらしい。
二三年六月、遊説と休養のため、妻や随行者とともにアラスカに向かった。
その後、サンフランシスコで心臓発作に見舞われ、八月二日に亡くなった。
死因が取り沙汰されたが、脳出血だった。
多くのアメリカ国民は、謙虚で親しみやすいハーディングを愛し、その突然の死を悲しんだ。
しかし、政権の不正の全貌が明らかになるにつれて、ハーディングの評価は失墜した。
女性問題も取り沙汰されるようになった。
死後、ハーディングの愛人ナン・ブリットンはハーディングとの間に生まれた子どもがいると主張する手記を出版した。
また、友人の妻であるキャリー・フィリップスとの関係も生前から噂されていたが、
一九六三年、老人ホームで亡くなったフィリップスの遺品からハーディングの書いた恋文が数多く発見された。
ハーディング自身は不正行為を行うような人間ではなかったが、能力的にも、決断力に乏しい性格からしても
大統領の器ではなかった。
にもかかわらず大統領に選ばれ、最も腐敗した政権という汚名を歴史に残したことは、
ハーディングにとっても、アメリカにとっても悲劇だった。
猿谷要 「アメリカ大統領物語」
P.120この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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