パウル・フォン・ヒンデンブルク
1847 − 1934
大統領、参謀総長 / ドイツ
一覧 (ハ)   
エピソード 1調査中。
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1914/07/28   オーストリア、セルビアに宣戦布告 (第一次世界大戦勃発)
1914/08/26   タンネンベルクの戦い (〜08/30)
1918/11/09   ドイツ革命
1919/01/18   パリ講和会議開催 (〜06/28/首席全権:西園寺公望
1919/06/28   ベルサイユ条約調印 (北京政府、調印拒否)
1919/07/31   ワイマール憲法成立
1921/05/05   連合国、賠償金1320億金マルクの支払計画受諾をドイツに要求
1923/01/11   フランス・ベルギー、ルール占領
1923/11/15   ドイツ、レンテンマルク発行開始 (→インフレ収束)
1924/08/29   ドイツ議会、ドーズ案を承認 (賠償金支払い問題)
1925/10/16   ロカルノ条約仮調印 (12/01 正式調印)
1926/09/08   ドイツ、国際連盟加盟
1926/12/12   連合国軍事監視委員会、ドイツからの撤退を決定
1929/06/07   ヤング案発表 (ドイツ賠償金支払い問題)
1931/06/20   フーバー・モラトリアム
1932/06/16   ローザンヌ会議開催 (〜07/09/ドイツ賠償金支払い問題)
1932/07/31   ナチス、第1党に躍進
1933/01/30   ヒトラー内閣成立 (独)
1933/02/27   国会議事堂放火事件 (ベルリン)
1933/03/23   ドイツ議会、全権委任法を可決 (ヒトラー独裁体制確立)
1933/07/14   ヒトラー、新政党の結成を禁止
1933/10/14   ドイツ、ジュネーブ軍縮会議・国際連盟からの脱退を表明
1934/04/11   ヒトラー、軍首脳と洋上会談
1934/06/30   レーム事件 (ヒトラーレームらを粛清)
1934/08/02   ヒンデンブルク没 (ドイツ大統領)
引用元帥は巨大な体躯―身長六フィート五インチ・体重二百ポンド―を持ち、粘液質の寡黙な典型的プロイセン軍人だった。 いかにも単純そうに見えたが、実は老獪とも評すべき打算家であって、たくまざる自己演出に長じていた。 とくに、他人の功績を横取りして自分の手柄にし、自分の失敗を他人に転嫁して涼しい顔をしながら、 人格高潔な無欲無私の愛国武将というイメージを樹立する処世術を、器用に身につけていた。 タンネンベルクの大勝はルーデンドルフ参謀長の鬼才に帰すべきものなのに、ヒンデンブルグが栄誉を独占した。 西部戦線の破綻とそれにつづく敗戦の責任は、参謀総長ヒンデンブルグが負わねばならぬのに、 すべての汚名をきたのは次長ルーデンドルフだった。 ヒンデンブルグはルーデンドルフのロボットに過ぎなかったのだが、一見高邁愚直な人柄が幸いしたのである。
カイザーが退位を余儀なくされたとき、引導を渡したのは、ヒンデンブルグ―終始沈黙していた―ではなく、 グレーナー参謀次長(ルーデンドルフの後任)である。 休戦協定にしてからが、本来ならヒンデンブルグが署名せねばならぬのに、 エルツベルガー代議士にまかせ、彼は泣いてエルツベルガーに感謝したのだが、そのエルツベルガーは敗戦主義者として暗殺されてしまった。 つづくヴェルサイユ講和条約の諾否をめぐって閣議が分裂し、エーベルト大統領がヒンデンブルグに軍部の意見を求めたとき、 元帥は故意に執務室から外出したので、グレーナー次長が代わって、受諾のほかない、と答えたが、 元帥は次長に、「君は大変な責任を負ったものだな」とつぶやいた。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「ヒンデンブルク」は「ヒンデンブルグ」とも表記されることがあります。