堀越 二郎 1903 − 1982
[ ほりこし・じろう ]
「ゼロ戦」設計者、三菱重工業名古屋航空機製作所技師長、防衛大学校教授、日本航空学会会長、航空評論家
エピソード 1調査中。
語録
ドイツの民衆の心が、敗戦後、さもしいまでに荒れすさんでしまったのを見るにつけ、
こういう国になってはおしまいだと思います。
外国に来て、日本の将来のことを考えると、愛国心がわいて来ます。
引用航空工学を専攻して設計者になったという堀越の経歴からは、
子供の頃から工作や機械いじりが好きだったに違いないと、大方の人は想像するかも知れないが、堀越は、
意外にも少年の頃、工作は下手なほうだった。当時飛行機凧というのが流行っていて、
友だちの中には見事な複葉凧を作る者もいたが、堀越は作ったことがなかった。
自分は模型が下手だと決めこんでいたので、手を出さなかったのだった。
群馬県藤岡市の農家の次男に生れた堀越の少年時代と飛行機との結びつきはといえば、
せいぜい『飛行少年』という雑誌をよく読んだことぐらいであったろう。
その堀越が、航空工学の道を選んだのは、一高三年の秋、いよいよ大学受験の学科を決めなければならなくなったとき、
兄の同級生で後にエンジンの大家となった東大機械工学科の中西不二夫助教授から、
「新しくできた航空学科が面白いのじゃないか、入りなさいよ。
航空でも、エンジンよりボディ(機体)のほうがいい」
と、すすめられたのがきっかけだった。
兄は「医者になれ」と言い、親戚の者も「医者になるなら学資のめんどうをみよう」と言ったが、
堀越は、航空という未知の分野に強い魅力を感じたのだった。
しかも、自分で工作をするのではなく、自分の理想を図面に表わし、工員を指揮してそれを作らせるという設計の仕事なら、
中西助教授の言うように面白そうだったし、何よりも自分の性格にぴったりのように思えた。
そして、三菱航空機に就職したのは、大学や軍の研究機関で基礎研究をやるよりは、
はやく飛行機作りの“指揮者”になりたいという気持からであった。
柳田邦男 「零式戦闘機」
P.108この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
|