広田 弘毅
1878 − 1948
[ ひろた・こうき ]
首相、外相、駐ソ大使、外務省欧米局長、A級戦犯
一覧 (ハ) 本を入手【内閣成立史】
エピソード 1東京裁判のA級戦犯。 首相として、あの軍部大臣現役武官制を復活させ、日独防共協定を結んだ人物でもある。 だが、首相としてはともかく、マイホームパパとしては合格点だったようだ。 裁判には必ず2人の娘が傍聴に訪れ、夫人は夫に後顧の憂いがないようにと自ら命を絶った。 広田はその後も、獄中から出す家族への手紙の宛名には、必ず妻の名を書いた、ということだ。
・ 福岡県出身。石屋に生まれる。東京帝大卒業後、外務省入省。
・ 欧米局長、駐ソ大使など歴任後、外相に就任。
・ 「背広の似合う首相」の期待を担うも、陸軍に壟断され、軍部大臣現役武官制復活
・ 広田内閣総辞職後、近衛内閣@で外相再任。日中戦争の拡大を食い止められず辞任。
・ 戦後、A級戦犯として東京裁判で「絞首刑」の判決刑死
1931/09/18   柳条湖事件 (満州事変勃発)
1932/05/26   斉藤内閣成立 (首相:斉藤実
1932/09/15   満州国承認 (日満議定書調印)
1933/03/28   日本、国際連盟脱退
1934/07/03   斉藤内閣総辞職
1934/07/08   岡田内閣成立 (首相:岡田啓介
1935/02/19   天皇機関説問題 (菊池武夫、貴族院で天皇機関説を非難)
1936/02/26   二・二六事件
1936/02/28   岡田内閣総辞職
1936/03/06   陸軍(陸相予定者寺内寿一)組閣干渉 (自由主義者の排除を要求)
1936/03/09   広田内閣成立 (首相:広田弘毅
1936/05/18   軍部大臣現役武官制復活
1936/08/07   「国策の基準」決定 (五相会議)
1936/09/21   陸海両相、広田首相に行政機構・議会制度改革案を提出
1936/11/25   日独防共協定調印
1937/01/21   浜田国松「割腹問答」
1937/01/21   寺内陸相、広田首相に解散を要求
1937/01/23   広田内閣総辞職
1937/06/04   近衛内閣@成立 (首相:近衛文麿
1937/07/07   盧溝橋事件 (日中戦争勃発)
1937/07/11   日本政府、華北への派兵を声明 (盧溝橋事件)
1937/08/13   上海事変A
1937/11/02   トラウトマン工作開始 (38/01/16 打切り)
1938/01/11   御前会議、トラウトマン工作打切りを決定
1938/01/16   近衛声明@ (国民政府を相手にせず)
1938/04/01   国家総動員法公布
1938/05/26   近衛内閣@改造
1939/01/04   近衛内閣@総辞職
1940/09/27   日独伊三国軍事同盟調印
1941/12/08   ハワイ奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)
1945/06/03   広田・マリク(駐日ソ連大使)会談
1945/08/15   玉音放送 (終戦の詔勅)
1945/12/02   GHQ、戦争犯罪人逮捕を指令B (平沼広田ら59人)
1946/04/29   A級戦犯容疑者28人の起訴状発表
1946/05/03   東京裁判(極東国際軍事裁判)開廷
1948/11/12   東京裁判、A級戦犯25被告に有罪判決
1948/12/23   東條英機・広田弘毅ら7人、絞首刑執行
引用広田は福岡県の石屋の子に生まれている。 右翼の玄洋社の出身である。 少年のころには軍人志望で、士官学校へ願書まで出したことがある。 ところが明治二十八年(一八九五)日清戦争が終わったあと、英、独、ロシアの三国の干渉で、日本はせっかく賠償でとった遼東半島を、 支那に還付しなければならなかった。 それを見て、「外交こそが大事だ」と、にわかに外交官志望に転じた。 外務省に入って、ソ連大使を務め、政官界から一流の外交官として評価されていた。
引用広田は福岡出身。頭山満の玄洋社の流れをくむが、それほど右翼的ではない。 はっきりしない性格だから、軍部もロボットにするつもりで賛成したのだ。 外相としての広田は、実務は次官の重光に任せきりだった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。