広田 弘毅 1878 − 1948
[ ひろた・こうき ]
首相、外相、駐ソ大使、外務省欧米局長、A級戦犯
エピソード 1東京裁判のA級戦犯。
首相として、あの軍部大臣現役武官制を復活させ、日独防共協定を結んだ人物でもある。
だが、首相としてはともかく、マイホームパパとしては合格点だったようだ。
裁判には必ず2人の娘が傍聴に訪れ、夫人は夫に後顧の憂いがないようにと自ら命を絶った。
広田はその後も、獄中から出す家族への手紙の宛名には、必ず妻の名を書いた、ということだ。
引用広田は福岡県の石屋の子に生まれている。
右翼の玄洋社の出身である。
少年のころには軍人志望で、士官学校へ願書まで出したことがある。
ところが明治二十八年(一八九五)日清戦争が終わったあと、英、独、ロシアの三国の干渉で、日本はせっかく賠償でとった遼東半島を、
支那に還付しなければならなかった。
それを見て、「外交こそが大事だ」と、にわかに外交官志望に転じた。
外務省に入って、ソ連大使を務め、政官界から一流の外交官として評価されていた。
戸川猪佐武 「小説 吉田茂」
P.73この本を入手
引用広田は福岡出身。頭山満の玄洋社の流れをくむが、それほど右翼的ではない。
はっきりしない性格だから、軍部もロボットにするつもりで賛成したのだ。
外相としての広田は、実務は次官の重光に任せきりだった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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