東久邇宮 稔彦 1887 − 1990
[ ひがしくにのみや・なるひこ ]
首相、皇族、防衛総司令官、「ひがしくに教」教祖、陸軍大将
エピソード 1調査中。
引用東久邇宮は皇族の中で例外的な個性であった。
宮は一八八七(明治二十)年、久邇宮朝彦王の九人の子の、末の子として京都に生まれた。
生まれてすぐに親から切り離され、上賀茂ついで岩倉の農家に預けられた。
野山を駆け回り強健な心身に鍛えられたが、孤独で強情な「やんちゃ坊主」になったと自ら回想している。
その結果、五歳の時に東京の皇族社会へ戻されると不適応を生じ、たえず問題を起こした。
十三歳で地方幼年学校に入ってからの陸軍にあっても同じであり、二度まで「皇族をやめる」騒ぎを起こした。
宮にとって皇族や陸軍のしきたりは不必要に窮屈であり、自由を欲した。
しかしそれは独立心と知的判断力の反映でもあった。
その点を明治天皇はじめ周囲に評価するむきもあったらしく、陸大卒業後の一九一五(大正四)年、
明治天皇の娘(大正天皇の妹)聡子との結婚を許された。
したがって、宮は昭和天皇の叔父にあたる。
宮が切望していた外国行きは、一九二〇年に実現した。
パリを中心とするヨーロッパでの七年間の自由な生活は「私にとって全く驚異であり革命」であったと本人がいうように、
宮を大きく成長させることになった。
六年間陸軍大学で学んだあと、政治法律学校に入学して、自由主義、平和主義、民主主義、社会主義などの入り乱れる社会科学を広く学んだ。
ペタン元帥をはじめとする軍人、クレマンソーら保守派だけでなく、左翼政党の政治家や、
モネ、ルノアール、ドガら画家・文人とも交流を楽しんだ。
窮屈な権威主義体制の日本は改革されねばならない、宮は自らいだいていた日本社会への不満に普遍的理由を見出した。
帰国したとき、宮は農地改革論者であり、労働改革の必要も認めていた。
ヨーロッパを知って日本のよさをかえって再認識する点もあったが、
日本の一般からすれば大胆な変革を考える視野の広い自由主義者もしくは民主主義者となって帰国したのである。
五百旗頭真 「日本の近代(6)」
P.218この本を入手
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「東久邇宮稔彦」は「東久邇稔彦」とも表記されることがあります。 |