林 董
1850 − 1913
[ はやし・ただす ]
外相、逓相、外務次官、駐英公使
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エピソード 1調査中。
・ 千葉県出身。蘭医で順天堂創立者の五男に生まれ、幕府御殿医の養子となる。
・ ヘボンらに英語を習い、幕府留学生としてイギリスに学ぶ。
・ 帰国後、箱館戦争に参加。のち明治政府に出仕。岩倉使節に随行。
・ 香川県知事などを歴任後、外務次官となり、条約改正、日清戦時外交に活躍。
・ その後、駐露公使を経て駐英公使となり、日英同盟の締結に成功。
・ 西園寺内閣@で外相に就任、日韓協約Bを締結。西園寺内閣Aでは逓相となる。
1901/10/16   日英同盟交渉開始
1902/01/30   日英同盟@調印
1903/12/31   小村外相、林駐英公使に対英財政援助要請を訓令 (04/01/02 拒否)
1904/02/10   対露宣戦布告 (日露戦争勃発)
1905/05/27   日本海海戦 (〜05/28/連合艦隊司令長官:東郷平八郎
1905/08/12   日英同盟A調印
1905/09/05   ポーツマス条約調印 (首席全権:小村寿太郎日露戦争終結)
1906/01/07   西園寺内閣@成立 (首相:西園寺公望
1906/03/03   加藤外相辞任 (鉄道国有化に反対して)
1907/07/03   伊藤統監、韓国皇帝にハーグ密使事件を追及
1907/07/19   韓国皇帝、譲位の詔勅を発表
1907/07/24   日韓協約B調印
1907/07/30   日露協約@調印
1907/08/01   韓国軍解散式
1908/07/04   西園寺内閣@総辞職
1911/08/30   西園寺内閣A成立 (首相:西園寺公望
1912/07/29   明治天皇崩御
1912/12/05   西園寺内閣A総辞職
引用林董というのは、【中略】 旧幕臣系である。
幕臣林洞海の養子で、旧幕時代の少年期、横浜で英語をまなんだ。 かれがのちに外務省きっての会話達者で英文上手の評を得るにいたるもとは、このころにあるらしい。 慶応二年、幕府が留学生を英国にやることをきめたとき、菊池大麓、中村敬宇らとともにえらばれた。 齢十六である。
幕府が瓦解し、帰国を命ぜられ、横浜まで帰ったとき、おりから旧幕府の海将榎本武揚が旧幕艦隊をひきいて品川沖に錨をおろしていた。 林はこれに投じて函館までゆき、五稜郭にこもったという男だけに、当時のことばでいう血性男児であったのであろう。
【中略】
結局、事やぶれて榎本らとともに降伏し、林は他の五百余人とともに津軽藩にあずけられ、青森の寺院で拘留生活をおくった。
ときの官軍参謀は薩摩の黒田清隆であったが黒田は、拘留賊徒のなかの林という人物が英国人と同等程度に英語ができるということを知り、 ひそかに林をよび、かれだけを抜いて東京の新政府でつかおうとした。
林は返答して、
「みなと一緒に釈放されるならいいが、自分だけならお断りする」
といって、ことわった。 このことが、のち薩摩系の要人のあいだでの林董観をつくらせ、かれの生涯の信用のもとになったらしい。 林董は、外交官になったあとでも、薩摩閥からの庇護を多くうけ、仕事がしやすかった。
明治二十四年外務次官、同三十年駐露公使、同三十三年駐英公使に転じた。 この履歴でもわかるように、日清、日露というそれぞれの戦争がはじまる前、 外交段階における最大の働き手のひとりだった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。