林 董 1850 − 1913
[ はやし・ただす ]
外相、逓相、外務次官、駐英公使
エピソード 1調査中。
引用林董というのは、【中略】 旧幕臣系である。
幕臣林洞海の養子で、旧幕時代の少年期、横浜で英語をまなんだ。
かれがのちに外務省きっての会話達者で英文上手の評を得るにいたるもとは、このころにあるらしい。
慶応二年、幕府が留学生を英国にやることをきめたとき、菊池大麓、中村敬宇らとともにえらばれた。
齢十六である。
幕府が瓦解し、帰国を命ぜられ、横浜まで帰ったとき、おりから旧幕府の海将榎本武揚が旧幕艦隊をひきいて品川沖に錨をおろしていた。
林はこれに投じて函館までゆき、五稜郭にこもったという男だけに、当時のことばでいう血性男児であったのであろう。
【中略】
結局、事やぶれて榎本らとともに降伏し、林は他の五百余人とともに津軽藩にあずけられ、青森の寺院で拘留生活をおくった。
林は返答して、
「みなと一緒に釈放されるならいいが、自分だけならお断りする」
といって、ことわった。
このことが、のち薩摩系の要人のあいだでの林董観をつくらせ、かれの生涯の信用のもとになったらしい。
林董は、外交官になったあとでも、薩摩閥からの庇護を多くうけ、仕事がしやすかった。
明治二十四年外務次官、同三十年駐露公使、同三十三年駐英公使に転じた。
この履歴でもわかるように、日清、日露というそれぞれの戦争がはじまる前、
外交段階における最大の働き手のひとりだった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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