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伊藤 博文 1841 − 1909
[ いとう・ひろぶみ ]
元老、首相(@/A/B/C)、枢密院議長、韓国統監、内務卿、政友会総裁
エピソード 1彼のおちゃめな人柄は有名だが、ここまでおちゃめ。
宮内省御用の医師ベルツがその日記に書いている。
「伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。
半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤のいわく『皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。
生まれるが早いか、至るところでエチケットの鎖で縛られ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない』と。
そう言いながら伊藤は、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたのである」
明治天皇は山県を敬遠し、こんな伊藤を愛したという。
引用一八五六(安政三)年、十五歳のとき藩の命令で、相模の国(神奈川県)の沿岸の警備につきました。
その時の上官が来原良蔵(一八二九〜六二)という人で、長州藩きっての文武の達人でした。
その上、桂小五郎(木戸孝允 一八三三〜七七)の義弟でもあった人ですが、この人の目にとまりました。
「この伊藤という人物は、年は若いが出来る奴だ」
といって、ひまがあると博文に漢学を教えました。
翌年、博文は長州に帰ることになりました。
そのとき、
〈この伊藤俊輔は、見こみのある青年です。
相州にいるときも漢学を教えたが、よくできる。
めんどうを見てやってほしい。きっと役に立つと思います〉
という手紙を持たせて、吉田松陰(一八三〇〜五九)と義兄の桂小五郎のところへ行かせました。
十六歳のとき松下村塾にはいり、吉田松陰に学ぶことができました。
翌年は来原良蔵のおともをして長崎に行き、鉄砲を勉強します。
十八歳のとき木戸孝允のおつき役として江戸に出ます。
もとはといえば来原のおかげで、十代半ばすぎに長州藩内一流の人にであい指導を受けることができたのです。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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