伊藤 博文
1841 − 1909
[ いとう・ひろぶみ ]
元老、首相(@/A/B/C)、枢密院議長、韓国統監、内務卿、政友会総裁
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エピソード 1彼のおちゃめな人柄は有名だが、ここまでおちゃめ。 宮内省御用の医師ベルツがその日記に書いている。 「伊藤の大胆な放言には自分も驚かされた。 半ば有栖川宮の方を向いて、伊藤のいわく『皇太子に生まれるのは、全く不運なことだ。 生まれるが早いか、至るところでエチケットの鎖で縛られ、大きくなれば、側近者の吹く笛に踊らされねばならない』と。 そう言いながら伊藤は、操り人形を糸で踊らせるような身振りをして見せたのである」 明治天皇は山県を敬遠し、こんな伊藤を愛したという。
・ 長州藩士。幕末、尊王運動に活躍。イギリス留学で開眼し開国論に転換。
・ 明治政府の要職を歴任、憲法の起草などを行い、4度首相を務める。
・ 元老として政党政治に理解を示し、自ら政友会を結成、政党を嫌う山県と対立する。
・ ロシアの満州進出に際しては、日露協商論を展開、日英同盟派に屈する。
・ 日露戦争中は、対韓政策に中心的な役割を果たし、戦後、初代韓国統監。
・ 統監辞任後、満州ハルピン駅前で、韓国の愛国者安重根暗殺される。
1867/11/10   大政奉還 (慶応03年10月15日)
1894/08/01   清国に宣戦布告 (日清戦争勃発)
1895/04/14   下関条約調印 (日清戦争終結)
1895/04/23   三国干渉 (独・仏・露3国公使、遼東半島の清国への返還を勧告)
1900/06/01   憲政党、伊藤博文に党首就任を要請
1900/09/15   政友会結成 (総裁:伊藤博文
1900/10/19   伊藤内閣C成立 (首相:伊藤博文
1901/05/02   伊藤首相、閣内不統一で辞表提出 (首相代理:西園寺公望
1901/05/03   伊藤内閣C総辞職
1901/09/18   伊藤博文渡米
1901/12/02   伊藤博文、日露協商交渉開始
1901/12/23   伊藤博文、露外相に交渉打切りを通告
1902/01/30   日英同盟@調印
1902/11/02   桂・伊藤会談 (地租継続問題)
1902/12/03   伊藤・大隈会談 (加藤高明の斡旋)
1903/04/21   無隣庵会議 (山県伊藤小村/京都)
1903/07/13   伊藤博文、枢密院議長就任
1904/02/04   御前会議、対露開戦を決定
1904/02/10   対露宣戦布告 (日露戦争勃発)
1904/02/23   日韓議定書調印
1904/08/22   日韓協約@調印
1905/04/21   対露講和条件を閣議決定
1905/05/27   日本海海戦 (〜05/28/連合艦隊司令長官:東郷平八郎
1905/09/05   ポーツマス条約調印 (首席全権:小村寿太郎日露戦争終結)
1905/11/17   日韓協約A調印
1905/12/20   韓国統監府設置 (12/21 伊藤博文を韓国統監に任命)
1907/07/03   伊藤統監、韓国皇帝にハーグ密使事件を追及
1907/07/19   韓国皇帝、譲位の詔勅を発表
1907/07/24   日韓協約B調印
1907/08/01   韓国軍解散式
1909/10/26   伊藤博文射殺事件
1909/11/04   伊藤博文国葬
引用一八五六(安政三)年、十五歳のとき藩の命令で、相模の国(神奈川県)の沿岸の警備につきました。 その時の上官が来原良蔵(一八二九〜六二)という人で、長州藩きっての文武の達人でした。 その上、桂小五郎(木戸孝允 一八三三〜七七)の義弟でもあった人ですが、この人の目にとまりました。
「この伊藤という人物は、年は若いが出来る奴だ」
といって、ひまがあると博文に漢学を教えました。
翌年、博文は長州に帰ることになりました。 そのとき、
〈この伊藤俊輔は、見こみのある青年です。 相州にいるときも漢学を教えたが、よくできる。 めんどうを見てやってほしい。きっと役に立つと思います〉
という手紙を持たせて、吉田松陰(一八三〇〜五九)と義兄の桂小五郎のところへ行かせました。
十六歳のとき松下村塾にはいり、吉田松陰に学ぶことができました。 翌年は来原良蔵のおともをして長崎に行き、鉄砲を勉強します。 十八歳のとき木戸孝允のおつき役として江戸に出ます。 もとはといえば来原のおかげで、十代半ばすぎに長州藩内一流の人にであい指導を受けることができたのです。
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