井上 準之助
1869 − 1932
[ いのうえ・じゅんのすけ ]
蔵相、日銀総裁、横浜正金銀行頭取
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エピソード 1「泣く子と井上さんには」とまで言われた強気の蔵相は めちゃめちゃな愛妻家。任地ニューヨークからの手紙はこんなのばっかり。 「夜は家郷のこと思われ寝ること能わず。写真を出してきてキッスし、あるいは子供の写真を見るなど、 2、3時間御身のことのみ考え申し候」
・ 大分県出身。帝大卒業後、日銀入行。
・ 営業局長など歴任後、横浜正金銀行常務副頭取、のち頭取。
・ 日銀総裁を経て、山本内閣Aの蔵相。関東大震災直後の経済救済に尽力。
・ ふたたび日銀総裁に返り咲いたあと、浜口内閣の蔵相。緊縮財政と金解禁を断行。
・ 若槻内閣Aに留任、総辞職後、血盟団事件で小沼正の凶弾に斃れる。
1922/08/01   日本経済連盟会設立 (井上準之助団琢磨ら)
1923/09/01   関東大震災
1923/09/02   山本内閣A成立 (首相:山本権兵衛
1923/09/07   支払猶予令 (09/01から30日間のモラトリアム/蔵相:井上準之助
1923/09/16   甘粕事件 (犯人:甘粕正彦
1923/09/27   日銀震災手形割引損失補償令公布 (蔵相:井上準之助
1923/12/27   虎の門事件 (摂政宮襲撃/犯人:難波大助)
1923/12/29   山本内閣A総辞職
1929/07/02   浜口内閣成立 (首相:浜口雄幸
1929/07/29   緊縮実行予算発表 (蔵相:井上準之助
1930/01/11   金解禁 (蔵相:井上準之助
1930/04/22   ロンドン海軍軍縮条約調印
1930/04/25   統帥権干犯問題 (犬養毅鳩山一郎が追及)
1930/11/14   浜口首相狙撃事件 (東京駅/犯人:佐郷屋留雄)
1931/03/17   三月事件 (陸軍によるクーデター未遂)
1931/04/13   浜口内閣総辞職
1931/04/14   若槻内閣A成立 (首相:若槻礼次郎
1931/05/16   官吏減俸を閣議決定 (蔵相:井上準之助
1931/09/18   柳条湖事件 (満州事変勃発)
1931/09/24   政府、不拡大方針を声明
1931/10/17   十月事件 (桜会によるクーデター未遂)
1931/11/18   日本政府、満州への増派を閣議決定
1931/11/21   安達内相、政友・民政協力内閣を主張 (声明発表)
1931/12/11   若槻内閣A総辞職 (安達内相の辞任拒否で閣内不統一)
1932/02/09   血盟団事件@ (井上準之助暗殺)
井上も銀行を出て民政党に入り政治をやり始めてからは、どうも性格がすっかり変ったと私は思うのです。 銀行をやって居る時分にはむしろ小心翼々として、どっちかというと我々から言えば消極的で弱かったですね。 但し初めから才人ではあった。なかなか頭は冴えて居った。  【中略】 もう少し井上が強くならなければいけないのじゃないかということを、仲間の間では言ったものです。 それが一度政治に入って選挙などをやって、いろいろな人から金を取って、あのやり方になったのです。 随分無理をしてすべてのことを強引にやった。 殊に弗買いに対する政策は無理をして居った。 【中略】 非常に明敏な男だが、弱い人で、 急に何だかばかに強い人のようになって来たのは、あれは結局、そこに押し込まれてそうなったのじゃないかと思うのです。
池田成彬 (元蔵相)
引用井上準之助は大分県出身。 明治二十九年東京帝大を出ると日本銀行に入り、横浜正金銀行頭取を経て日本銀行総裁に転じ、 第一次大戦後の金融対策にたずさわった。 関東大震災の善後処理にも蔵相として努めている。
大正八年、日本銀行総裁のときは金融恐慌に尽力したが、昭和四年、浜口内閣のもとに大蔵大臣として就任し、 緊縮政策を実施し、金解禁を断行した。 彼は次の第二次若槻内閣にも留任して、その政策をつづけた。
これらの政策は、おりからの世界恐慌の影響と日本資本主義の弱さから彼の思う通りの成果をあげえず、 国内は空前の不況となり、若槻内閣は、ために崩壊した。
しかし、井上準之助は民政党の筆頭総務となり、選挙対策委員長を兼ね、 当時はさながら副総裁の実力があった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。