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一木 喜徳郎 1867 − 1944
[ いちき・きとくろう ]
内相、文相、宮内大臣、枢密院議長、内務次官、法制局長官、東大教授
エピソード 1調査中。
引用一木喜徳郎は遠州掛川の豪農の生れだ。
兄は優秀な文部官僚で、のち文部大臣にもなった岡田良平だった。
ともに二宮尊徳の報徳宗信者の一家として知られている。
一木は東京帝大の政治理財科を優等で卒業したが、この理財の知識が彼を「進歩的」にしたといわれている。
卒業してすぐ内務省に入り、六年間内務官僚として実地の行政に活躍したことも、
あるいは若干影響があるかもしれない。
一木は、その間、行政法を研究するためにドイツに渡った。
明治二十七年、内務省をやめ、帝大法科教授となった。
三十三年、法学博士となって、新進の教授として知られた。吉野作造が入学する一年前であった。
帝大では憲法論の解釈として一木と穂積とが対立していたが、学生の人気は一木に集っていた。
のち、穂積の遵奉者となった上杉慎吉でさえ学生時代には、穂積八束を「曲学の徒」と罵って、一木に傾倒したほどだ。
松本清張 「昭和史発掘(6)」
P.128この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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