池田 成彬
1867 − 1950
[ いけだ・しげあき ]
蔵相、三井合名常務理事、日本銀行総裁、三井銀行常務取締役
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エピソード 1調査中。
・ 米沢藩に生まれ、慶応義塾、ハーバード大学で学ぶ。
・ 帰国後、三井銀行に入行、株式の公開など、同行の近代化に力を注ぐ。
・ 三井財閥の最高指導者となり、三井の改革を断行。
・ 引退後、日本銀行総裁、蔵相、商工相、枢密顧問官などを歴任。
・ 戦後、A級戦犯容疑者に指定されたが、翌年解除。
1937/06/04   近衛内閣@成立 (首相:近衛文麿
1937/07/07   盧溝橋事件 (日中戦争勃発)
1937/08/13   上海事変A
1938/04/01   国家総動員法公布
1938/05/26   近衛内閣@改造
1939/01/04   近衛内閣@総辞職
1940/09/27   日独伊三国軍事同盟調印
1941/04/13   日ソ中立条約調印
1941/12/08   ハワイ奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)
1945/08/15   玉音放送 (終戦の詔勅)
1945/12/02   GHQ、戦争犯罪人逮捕を指令B (平沼広田ら59人)
1946/04/29   A級戦犯容疑者28人の起訴状発表
1946/05/03   東京裁判(極東国際軍事裁判)開廷
引用池田成彬は米沢の上杉家の家老の長男として生れ、 三田の福沢塾に入ったのが十八歳、明治十二年だった。 福沢諭吉は池田少年に対して「イエスかノーか必要なときにはっきり云い切れることが処世の根本義」だと 教えたそうである。(和田・前掲書)
団琢磨が倒れたあと、有賀の筆頭常務理事時代があるが短かった。 実際、のあとを受けて三井の独裁的存在となったのは池田である。 彼が外遊してヨーロッパ諸国の財閥機構を見てまわったのはさきにふれたが、 ファッショの嵐の中で三井の「大転向」をやったのは池田の実力である。 三井一族の引退、役員の定年制の実施、報恩会の設立による三千万円の寄付行為などみな池田の独裁力からである。 しかも、彼が三井一家のためを想う番頭であること有賀以上であった。 定年による引退前の彼の数年間は軍ファッショが三井一族に災害が及ばないように腐心し、 そのために精力を使い果したといわれる。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。