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犬養 毅 1855 − 1932
[ いぬかい・つよし ]
首相、文相、逓相、政友会総裁、「憲政の神様」
エピソード 1首相として1932年5月15日に凶弾に斃れた犬養だが、
1925年5月16日、護憲三派内閣で念願の普通選挙を実現すると引退を発表している。
どういうことかというと、岡山の後援者たちが彼の引退を許さず、以後も勝手に選挙運動を行い当選させ続けるうちに、
田中義一が急死、人材難の政友会から総裁就任を求められた、というわけだ。
かくして、すでに引退したお年寄りが首相になるという怪現象が起こった。
引用犬養毅は岡山藩士の倅だが、上京して慶応義塾に入り、
郵便報知新聞記者として西南戦争に従軍した。
彼が巻脚絆で戦地を駈けずりまわって報じた「戦地直報」は、わが国最初の従軍記事として好評を博した。
慶応の関係から岩崎の支援をうけ、東海経済新報などを主宰したが、一時は官途についていたこともある。
有名な明治十四年の政変で大隈重信に殉じて下野した。
明治二十三年、第一回衆議院議員選挙には岡山県から当選し、進歩党を経て憲政会に入った。
その後国民党を創立し、爾来野党的立場を守って活躍した。
頭山満とともに孫文援助のため中国に渡ったこともある。
だが、寺内内閣のときには外交調査会に原敬とともに参加して、
はじめて節操に動揺を来し、帝国主義権力と次第に妥協するようになった。
第二次山本権兵衛内閣の逓信大臣となったが、例の護憲運動が起ると、自分の率いた革新倶楽部とともに護憲三派に加わり、
加藤内閣では逓信大臣となった。
大正十四年、革新倶楽部がもちこたえられずに政友会と合同したが、
一時は政界から引退した。
しかし、田中義一の死去後は森恪の懇請によって政友会総裁となり、若槻内閣のあと、政友会内閣の首班となった。
犬養は清廉潔白な政治家と世間で見られ、木堂の名によってその書も知られている。
松本清張 「昭和史発掘(4)」
P.240この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「犬養毅」は「犬養木堂」とも表記されることがあります。 |