ジョン・F・ケネディ
1917 − 1963
大統領(民主党)、上院議員、下院議員 / アメリカ
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1938/09/30   ミュンヘン協定 (ドイツへのズデーテン割譲を決定)
1941/12/08   ハワイ奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)
1945/09/02   降伏文書調印 (全権:重光葵梅津美治郎/第二次世界大戦終結)
1947/06/05   マーシャル・プラン(ヨーロッパ復興計画)発表
1948/06/24   ベルリン封鎖 (〜49/05/12)
1949/04/04   NATO(北太平洋条約)調印
1949/10/01   中華人民共和国成立 (主席:毛沢東
1950/06/25   朝鮮戦争勃発
引用JFKについて触れるには、どうしてもケネディ一家からはじめなければならない。 一八四〇年代、故郷アイルランドが深刻な飢餓に襲われ一家は新天地米国に移住、 ボストンの貧民街に居を定めた。 祖父がはじめたのは酒場の主人だったが、懸命に働いたお陰で財産を作り、父親のジョセフ・パトリックはハーヴァード大学を卒業後、 二十五歳にして銀行の頭取となり、実業家として大成功をおさめボストン市長の娘と結婚した。
ジョンは一九一七年九人兄弟姉妹の二番目に生まれた。 次々豪華な邸宅へ変わり、ついにニューヨークに移住、優雅な子供時代を送っている。 父親の希望は有能な長男のジョゼフ二世が米国を背負う指導者になってくれることだった。 だが早世(戦死)したため、その期待は、JFK、つまりジョンに移った。 WASP(白人でアングロサクソンでプロテスタント)が政治を動かしているこの国で、 アイルランド系カトリック教徒であるという経歴は大統領になることは不可能に近いタブーに挑戦することだった。
父親はその後駐英大使となった。 ケネディは、ハーヴァード大学在学中の一九三〇年代後半に、二回ヨーロッパを旅行、緊張する国際情勢を垣間見、 とくにロンドンでは父親のいる米大使館に滞在し、出入りする外国の政治家や外交官を通じて国際政治そのものを実地で見聞した。 この頃から父親はやがてジョンが大統領になることを期待していた。 ハーヴァード大に戻ったジョンは、ヒトラーの横暴を認めてしまった三八年の「ミュンヘンの譲歩」に注目、 英国外交を徹底的に分析、学位論文のテーマに「英国はなぜ眠っていたか」を選んだ。 この論文は歴史の研究家ばかりでなく政治家にも高く評価され、後刻、単行本になっている。
四〇年ハーヴァード大を卒業、海軍を志願、太平洋戦線で魚雷艇の艇長として活躍した。 四三年、彼の魚雷艇が日本軍の駆逐艦に沈められ、以前から持病を抱えていた背中にさらに重傷を負ったにもかかわらず、 生存していた部下を無事に救出、海軍と海兵隊から勲章をもらったことは有名な話である。
戦後は父親の希望でもある政界に入ることを決意、民主党からまず四六年にボストン選出の下院議員を三期つとめ、 ついで五二年には上院議員となり二期つとめた。
翌五三年、ジャクリーン・ブーヴィエと結婚、二人の間に息子二人と娘一人をもうけている。 ケネディは背中の持病に悩まされ、再三入退院を繰り返していたが、「大統領への道」は諦めなかった。 静養中も「その日」に備え、八人の上院議員の政治的な勇気ある行動を分析し、 『勇気ある人々の横顔』を五六年書き上げて、ピューリッツアー賞(伝記部門)を受賞した。
時の民主党大統領トルーマンの社会正義を柱にした「フェアディール」政策には内政面で協力。 外交面では共産主義陣営を封じ込める「トルーマン・ドクトリン」に共鳴しながら、中国の共産化を阻止できなかったことを厳しく批判した。 あらゆる問題に確信のある評価を下し旗幟を鮮明にしたので彼は「現実的理想主義者」と高く評された。
豊富な財産を活用して絶えずケネディ家の結束を図り、また民主党組織内でも一段低くみられていたアイルランド系移民との連帯に気を遣い、 都会の大衆、個人的な選挙組織を基盤として、同時にエリート意識をむきだしにしていた。 このような政治姿勢は、若者やリベラル派をつかむ効果があったが、 同時に従来の民主党の保守本流の中に多くの「敵」をつくったのも事実である。
こうして「大統領への道」を着実に歩んでいたケネディは、六〇年の大統領選挙で民主党候補として立候補した。 党内での主たる競争相手はベテランのハンフリーとジョンソン、それにリベラル派のスティヴンソンだったが、 若さと理想色で三者を破った。 本番の大統領選挙での相手は共和党のニクソン、それ以上にしたたかな政治家である。 ケネディは「大統領には若すぎる」「未熟である」などの批判を受けたが、そうした批判を逆用した。 当時ケネディにとり最大の味方は米国民に定着してきたテレビである。 国民の前で直接討論する「テレビ討論」がはじめて登場したのだ。 視聴者を前に若さと歯切れの良い理想主義的な論理を展開し、ケネディは若者と女性の有権者の心をつかんだ。
事前の世論調査の予想通り、ケネディが勝利した。 だが、投票した有権者六千九百万のなかで、ニクソンとの差は十一万九千四百五十票、薄氷を踏む勝利だった。
かくて米国に初のローマ・カトリック教徒で、史上最年少の大統領が誕生した。
引用第二次大戦が始まってパリがドイツ軍に占領されると、彼は『イギリスはなぜ眠ったか』を出版し、 ベストセラーとなってその名を知られるようになった。
戦争中は海軍に入隊し、魚雷艇の艇長として南太平洋で日本軍と戦って負傷する。 この傷は脊髄疾患となって後まで彼を苦しめることになった。
戦後は父や家族の積極的な支援を受けて一九四七年に連邦下院議員となり、三期六年間つとめた後、 五二年にはマサチューセッツ州選出の連邦上院議員に挑戦する。 ケネディ家あげての選挙戦によって辛うじて当選し、任期六年の上院議員としてまず教育福祉委員会に加わり、 同州のとくに労働者階級の福祉のために働いた。
その後脊髄疾患の悪化で数ヵ月も入院しなければならなくなり、普通ならば政治生命にもかかわるところを、 ジョンはこの期間に『勇気ある人びと』を書き上げて、なんと伝記部門のピュリッツァー賞を受けたのだった。 ジョンの関心は、身近な州内の問題から全米の問題へと広がるが、やがて外交問題に目を転じ、 上院外交委員会の一員として活躍するようになった。
彼は早くから一九六〇年の大統領選挙を意識していた。 五八年に上院に再選されると、すぐに目標をその点にしぼり、長期的な選挙戦を展開し、 六〇年七月の民主党全国大会では第一回の投票で大統領候補に選ばれた。 対する共和党の候補となったのは、現職の副大統領でまだ四十七歳のニクソンだった。 初めてテレビ討論が行われて話題になったこの選挙戦で、 一般投票では僅か〇・二パーセントの差(選挙人団の票は三〇三対二一九)でジョンは勝利を収めたのである。
そのとき共和党のアイゼンハワー大統領は七十歳になっていたから、 ちょうど親から子へバトンが渡されたほどの、若いイメージがアメリカ全体を包んだ。 一九六一年一月の就任演説でこの新しい大統領は、「諸君のために祖国が何をしてくれるかを問うのではなく、 諸君こそ祖国のために何ができるかを問う」ようによびかけたのは、 多くのアメリカ人を奮い立たせることになった。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「ジョン・F・ケネディ」は「J・F・K」とも表記されることがあります。