近衛 文麿
1891 − 1945
[ このえ・ふみまろ ]
首相(@AB)、貴族院議長、枢密院議長
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エピソード 1彼の戦争責任は覆いようもないが、 彼を熱烈に支持した人たち(ほとんどすべての国民)がいたことも忘れてはならないだろう。 近衛が新体制運動を唱えて枢密院議長を辞任するや、既成政党は右から左までみんなそろって自発的に解党し、 新体制準備会に集まった。近衛が新体制について、何の構想も発表しないうちに、だ。 「矢が飛ぼうが、槍が降ろうが、死ぬまで解党するものかと頑張るほどの政党が、一つくらいあってもいいではないか」 とブレーンたちと嘆いたそうだ。
・ 東京都出身。公爵近衛篤麿の長男。東京帝大入学後、京都帝大に転入、卒業。
・ パリ講和会議西園寺公望の随員として出席、その後、貴族院議員。
・ 論文「英米本位の平和主義を排す」などを発表。のち、貴族院議長に就任。
・ 満州事変や国際連盟脱退などを高く評価し、陸軍皇道派に共感を持つ。
・ 組閣を固辞し続けたが、ついに首相に就任するや、日中戦争勃発
・ 華北出兵声明で武力衝突を長期化、近衛声明@で全面戦争を泥沼化させる。
・ 国家総動員法など、戦時総動員体制を確立、汪兆銘政権擁立に目鼻をつけて辞任。
・ 米内内閣のとき、新体制運動に立ちあがり、再度首相就任。大政翼賛会結成
・ 日独伊三国軍事同盟日ソ中立条約締結、仏印進駐で日米関係を険悪化させる。
・ 日米交渉では首脳会談を企図するも果たせず、日米開戦の危機を前に内閣総辞職
・ 終戦工作に尽力。戦後、新憲法起草に携わるも、戦犯に指定されるや、自殺
1904/01/02   近衛篤麿没
1904/02/10   対露宣戦布告 (日露戦争勃発)
1912/07/29   明治天皇崩御
1914/07/28   オーストリア、セルビアに宣戦布告 (第一次世界大戦勃発)
1919/01/18   パリ講和会議開催 (〜06/28/首席全権:西園寺公望
1919/06/28   ベルサイユ条約調印 (北京政府、調印拒否)
1931/09/18   柳条湖事件 (満州事変勃発)
1934/05/17   近衛文麿貴族院議長、親善特使として渡米
1934/06/08   近衛文麿、F・ルーズベルト大統領・ハル国務長官と会談
1936/02/26   二・二六事件
1936/03/04   近衛文麿に組閣命令 (辞退)
1937/06/04   近衛内閣@成立 (首相:近衛文麿
1937/07/07   盧溝橋事件 (日中戦争勃発)
1937/07/11   日本政府、華北への派兵を声明 (盧溝橋事件)
1937/08/13   上海事変A
1938/01/16   近衛声明@ (国民政府を相手にせず)
1938/04/01   国家総動員法公布
1938/05/26   近衛内閣@改造
1938/11/03   近衛声明A (東亜新秩序建設)
1938/12/22   近衛声明B (近衛三原則)
1939/01/04   近衛内閣@総辞職
1939/01/05   平沼内閣成立 (首相:平沼騏一郎
1939/08/28   平沼内閣総辞職 (欧州の天地は複雑怪奇)
1940/06/24   近衛文麿、枢密院議長辞任 (新体制運動推進を決意)
1940/07/16   畑陸相、単独辞任 (陸軍、後任推薦拒否)
1940/07/19   荻窪会談 (近衛松岡東條吉田
1940/07/22   近衛内閣A成立 (首相:近衛文麿
1940/07/27   大本営政府連絡会議、「南進」「枢軸強化」を決定
1940/09/23   北部仏印進駐
1940/09/27   日独伊三国軍事同盟調印
1940/10/12   大政翼賛会発足
1941/04/13   日ソ中立条約調印
1941/04/16   日米交渉開始
1941/07/02   御前会議、「南進」「北進準備」を決定
1941/07/02   大本営、「関特演」発動
1941/07/16   近衛内閣A総辞職
1941/07/18   近衛内閣B成立 (首相:近衛文麿
1941/07/28   南部仏印進駐
1941/08/01   アメリカ、対日石油輸出禁止
1941/08/04   近衛首相、日米首脳会談を陸海両相に打診
1941/09/06   御前会議、対米開戦を決意 (「帝国国策遂行要領」決定)
1941/10/12   荻窪会談 (近衛首相外相と和戦について議論)
1941/10/16   近衛内閣B総辞職
1941/12/08   ハワイ奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)
1945/02/14   近衛文麿、天皇に上奏文を奉呈
1945/07/10   最高戦争指導会議、近衛特使ソ連派遣を決定
1945/08/15   玉音放送 (終戦の詔勅)
1945/08/17   東久邇宮内閣成立 (首相:東久邇宮稔彦/無任所相:近衛文麿
1945/08/30   マッカーサー厚木到着
1945/09/02   降伏文書調印 (全権:重光葵梅津美治郎/第二次世界大戦終結)
1945/09/03   重光・マッカーサー会談 (軍政中止)
1945/09/13   近衛・マッカーサー会談@
1945/09/17   重光外相辞任 (後任:吉田茂
1945/09/27   天皇、マッカーサーを訪問 (会談@)
1945/10/04   近衛・マッカーサー会談A
1945/10/08   近衛・アチソン(GHQ政治顧問)会談
1945/10/04   GHQ、「自由主義化」を指令
1945/10/05   東久邇宮内閣総辞職
1945/10/11   近衛文麿、内大臣府御用掛就任
1945/11/01   GHQ、近衛文麿の憲法改正作業にGHQは関知しないと声明
1945/11/22   近衛文麿、帝国憲法改正要綱(近衛私案)を天皇に報告
1945/12/06   GHQ、戦争犯罪人逮捕を指令C (近衛木戸ら9人)
1945/12/16   近衛文麿、服毒自殺
近衛公は聡明で気持ちがよいが、知恵が余って胆力と決断力がなかった。 知恵は人から借りられるが、度胸は人から借りられない。
宇垣一成 (元陸相)
引用近衛は、荒木小畑敏四郎鈴木貞一などの皇道派の軍人、森恪や白鳥敏夫など 親皇道派の政党人や官僚と親しい一方、木戸幸一、岡部長景、有馬頼寧原田熊雄などの若手華族と語らって グループをつくった。 彼らは革新派とか貴族院の新人とかいわれた。 近衛の肚は、軍人が政治の進出しないように、必要な諸改革を行って、その口実を封じようとするにあったといわれている。 新官僚とよばれる中堅層にも接触し、「朝飯会」なる会合を持ってひろく意見を交換した。 【中略】
近衛が早くから未来の宰相と視られていたのは、西園寺の寵児だったからである。 いうまでもなく近衛は五摂家の筆頭、若いときフランス派の自由主義にかぶれて帰国した西園寺も毛ナミ好みでは人後に落ちず、 早くから近衛が意中にあった。 近衛を中心に新党運動が五、六年も前から蠢動していたのは、この間の事情を知る政党人らの先物買からである。
引用近衛自身に最高指導者として、 この世界的な大動乱の中で大きな役割を演じたいという期待がなかったわけではない。 彼がかつてヒットラーの仮装をしたというエピソードが示しているように、 強者へのつよいあこがれがあったことはたしかである。 そしてそれは彼自身が自覚していた自己の「弱さ」の裏返しでもあった。 近衛にはたしかに大衆的な人気があった。 しかし彼は決してカリスマではなく、彼の人気を支えていた一つは天皇家との近さという彼の出自であった。 しかも性格的に積極性を欠いていた彼は「指導者」というタイプではなく、かつがれ型の政治家であった。 だから尾崎秀実は近衛をケレンスキーに比したのである。 近衛が独裁者となりうるタイプの政治家でないことは、近衛をかついだ当の人びとの実感であったろう。 にもかかわらず近衛をかついだのは、近衛がすべての政治勢力から「悪く思われていない」ということ、 つまり当時の大義名分であった「挙国一致」を標榜しながら、 上から「党」を作っていくために必要欠くべからざる存在であったからである。 そのような人物はほかに存在しなかったのである。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。