近衛 文麿 1891 − 1945
[ このえ・ふみまろ ]
エピソード 1彼の戦争責任は覆いようもないが、
彼を熱烈に支持した人たち(ほとんどすべての国民)がいたことも忘れてはならないだろう。
近衛が新体制運動を唱えて枢密院議長を辞任するや、既成政党は右から左までみんなそろって自発的に解党し、
新体制準備会に集まった。近衛が新体制について、何の構想も発表しないうちに、だ。
「矢が飛ぼうが、槍が降ろうが、死ぬまで解党するものかと頑張るほどの政党が、一つくらいあってもいいではないか」
とブレーンたちと嘆いたそうだ。
評
近衛公は聡明で気持ちがよいが、知恵が余って胆力と決断力がなかった。
知恵は人から借りられるが、度胸は人から借りられない。
宇垣一成 (元陸相)
引用近衛は、荒木、小畑敏四郎、鈴木貞一などの皇道派の軍人、森恪や白鳥敏夫など
親皇道派の政党人や官僚と親しい一方、木戸幸一、岡部長景、有馬頼寧、原田熊雄などの若手華族と語らって
グループをつくった。
彼らは革新派とか貴族院の新人とかいわれた。
近衛の肚は、軍人が政治の進出しないように、必要な諸改革を行って、その口実を封じようとするにあったといわれている。
新官僚とよばれる中堅層にも接触し、「朝飯会」なる会合を持ってひろく意見を交換した。 【中略】
引用近衛自身に最高指導者として、
この世界的な大動乱の中で大きな役割を演じたいという期待がなかったわけではない。
彼がかつてヒットラーの仮装をしたというエピソードが示しているように、
強者へのつよいあこがれがあったことはたしかである。
そしてそれは彼自身が自覚していた自己の「弱さ」の裏返しでもあった。
近衛にはたしかに大衆的な人気があった。
しかし彼は決してカリスマではなく、彼の人気を支えていた一つは天皇家との近さという彼の出自であった。
しかも性格的に積極性を欠いていた彼は「指導者」というタイプではなく、かつがれ型の政治家であった。
だから尾崎秀実は近衛をケレンスキーに比したのである。
近衛が独裁者となりうるタイプの政治家でないことは、近衛をかついだ当の人びとの実感であったろう。
にもかかわらず近衛をかついだのは、近衛がすべての政治勢力から「悪く思われていない」ということ、
つまり当時の大義名分であった「挙国一致」を標榜しながら、
上から「党」を作っていくために必要欠くべからざる存在であったからである。
そのような人物はほかに存在しなかったのである。
伊藤隆 「近衛新体制」
P.221この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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