北 一輝 1883 − 1937
[ きた・いっき ]
国家社会主義者、革命家
エピソード 1調査中。
評
あれは魔ものだ。
真崎甚三郎 (皇道派最高実力者)
評
北の風貌全く想像に反す。柔和にして品よく白皙。流石に一方の大将たるの風格あり。
吉田悳 (裁判長、少将)
語録
人無し、勇将真崎あり、国家正義軍のために号令し、正義軍速かに一任せよ。
引用北一輝は本名を輝次郎といい、新潟県佐渡に生まれた。
土地の中学を中退してから上京し、独学で広く社会科学に関する研究に没頭したが、
二十四歳のころ、「国体論及び純正社会主義」という著書を出版して、
国体観に基づき当時の幸徳秋水一派の社会主義を批評した。
それが奇縁となって孫逸仙や黄興、張継などの中国革命家と相識って支那革命党に加入している。
二十九歳のころ、中国第一革命が勃発すると単身中国に渡って、上海、武昌、南京などの各地に革命達成のため画策奔走した。
そのため三十一歳のとき日本領事から三年間支那滞留禁止処分をうけて帰国した。
以後も中国に渡って革命に参加したが、大川周明と相識るようになってから、
「特権階級と財閥とが結託して私利私欲をほしいままにし、国政を紊り、国威を失墜し、
国民生活を窮乏に陥れている」と聞いて大川の考えに共鳴した。
帰国してから彼は「日本改造法案大綱」を書いている。
これは、のちに西田税を通じて改造運動のバイブルとして青年将校や民間右翼有志に広く読まれた。
松本清張 「昭和史発掘(4)」
P.172この本を入手
ことが判明したとある。
松本清張 「昭和史発掘(8)」
P.225この本を入手
引用明治十六年、佐渡湊町に生れた北輝次郎は中学四年で退学し、
十九歳で無断上京したが眼病を患って帰郷(右眼失明)、二十三歳に再び上京して早大の聴講生となり、
上野図書館に通って勉強した。一時は弟のヤ吉の下宿にいた。
北と中国革命(清朝末期)とは切っても切りはなせない。
その最初の暗示となったのは幸徳秋水、西川光二郎、堺利彦らが出している機関紙「直言」八月六日号(明治三十八年)であった。
それには、孫逸仙(孫文)がブラッセルの万国社会党を訪ねて「支那にも一の社会党存すること、
その党は挙げて万国社会党団体に加入せんと欲すること、及び次期の万国大会には代表者を出席せしむべき事等を申出で、
且つ支那帝国内に於て、既に五十四個の社会党新聞を存し、其運動は決して幼稚なるものに非ざること」を述べたという
簡単な報道が載っていた。
この記事は北の興味をそそり、日露戦争直後の混沌とした世相の中に思想的に迷っていた彼に一種の昂奮を与えた。
早大聴講生としての北はきわめて勤勉で、浮田和民教授、有賀長雄教授、安部磯雄教授の講義には
たいてい出席し、その著書に読み耽り、また井上哲次郎、一木喜徳郎、美濃部達吉、金井延諸博士などの著書を
片端から買ってきては読んだ。
本代のために郷里からの仕送りではたりず焼芋で一食をすます生活がつづいた。
それらの著書は公法関係、経済関係、思想関係、憲法関係にわたっていたが、
とくに有賀博士の国家学、社会進化論、族制進化論、宗教進化論、日本古代法釈義などを耽読した。
北のこの勉強ぶりは、彼が一大著述を世に問い、そのためにはまず諸大家を攻撃せんとする野心があったからで、
それが二千余枚の草稿で菊判約千ページの「国体及び純正社会主義」である。
松本清張 「昭和史発掘(8)」
P.241この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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