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小村 寿太郎 1855 − 1911
[ こむら・じゅたろう ]
外相、日露講和会議首席全権、外務次官、駐米公使、駐露公使
エピソード 1陸奥宗光に拾われるまで、不遇という言葉は彼のためにあるといっていいほど、
小村は絵に描いたように不遇だった。
彼は、父親から相続した多重債務と、わがまま美人妻のヒステリーと、外務省のリストラの三重奏をBGMに、酒を飲み女を買った。
いや、買ったというのは正確ではない。彼にはそんなカネはなく、いつも踏み倒したのだから。
雨の日には、傘がないから濡れて歩いた。
座布団が二枚しかない自宅に客が来てタバコを吸いはじめると、もらいタバコをうれしそうに吸った。
カネもないのに、同僚たちの飲み会に平然と参加し顰蹙を買った。
だがのち、このタフなふてぶてしさが小国日本のために生きた。
小村寿太郎の名は、今でも日本外交史上に燦然と輝いている。
引用小村寿太郎の政党論。
「日本のいわゆる政党なるものは私利私欲のためにあつまった徒党である。
主義もなければ理想もない。
外国の政党には歴史がある。
人に政党の主義があり、家に政党の歴史がある。
祖先はその主義のために血を流し、家はその政党のために浮沈した。
日本にはそんな人間もそんな家もそんな歴史もない。
日本の政党は、憲法政治の迷想からできあがった一種のフィクション(虚構)である」
藩閥論。
「藩閥はすでにシャドウ(影)である。実体がない」
ついでながら、小村は日向飫肥藩の出身で、薩長人ではない。
「ところがフィクションである政党とシャドウである藩閥とがつかみあいのけんかをつづけているのが日本の政界の現実であり、
虚構と影のあらそいだけに日本の運命をどうころばせてしまうかわからない。
将来、日本はこの空ろな二つのあらそいのためにとんでもない淵におちこむだろう」
司馬遼太郎 「坂の上の雲(2)」
P.277この本を入手
引用藩閥政治の中で、小村が外務大臣の地位についたことは奇蹟に近かった。
すぐれた頭脳、強靭な神経、大胆で周到な実行力が認められた結果ではあったが、偶然の積みかさねが、
かれをその地位に押し上げたことは事実であった。
ゆるぎない藩閥を背景に要職につく政治家、軍人の間で、臆することなく生きてきたかれの姿勢は、
宮崎県の飫肥生れであることと無縁ではないと言っていい。
飫肥藩は五万二千石の小藩で、藩主伊東氏の先祖は、日向(宮崎県)一国を領し、薩摩の島津と覇を争っていた。
島津と伊東の争点は飫肥で、その地をめぐって激しい戦いがくりかえされ、互いに奪取がつづいたが、
天正五年(一五七七)伊東氏は大敗し、日向国一円が島津領になった。
その後、秀吉の九州征伐に加わって、その功により飫肥に封ぜられた。
島津との宿命的とも言える確執はつづき、藩境争いも起り、絶えず大藩の薩摩藩の重圧を受けた。
小村は、七歳で藩校振徳堂に入学し、家が貧しかったため寮の雑役をして十五歳で首席で卒業した。
藩主伊東祐帰は、明治を迎えて学問振興のもとに五名の子弟をえらんで長崎へ遊学させた。
小村もその一人で、藩屈指の俊秀小倉処平に引率されて長崎へおもむき、英語を学んだ。
小村は、明治三年春、小倉にともなわれてアメリカ汽船で東京に行った。
小倉のすすめで大学南校に入学しようとしたのである。
小倉は、大学南校の学生が大藩の子弟に占められていることを知り、広く地方の人材を集めるべきだと考え、
米沢藩出身の平田東助とともに貢進生制度を政府に建議し、容れられた。
その制度は、年齢十六歳から二十歳までの優秀な人材を教育するもので、十五万石以上の大藩から三名、
五万石以上の中藩から二名、五万石未満の小藩から一名とし、学費は藩が扶助することになった。
それによって三百十名の貢進生が入学したが、飫肥藩からは小村一人が選ばれ、英語組に編入させられた。
かれの学業成績は群をぬいていて、卒業成績も三浦(鳩山)和夫についで二番で、明治八年、
第一回文部省留学生として渡米、ハーバード大学で法律を修め、卒業後、ニューヨークにおもむき、
前司法長官で弁護士として著名なピールポンドの事務所に勤務して法律の実際を学び、明治十三年、二十六歳で帰国した。
かれは、その間に、小倉処平が西南戦争に西郷軍の監軍として参加し、大筒の弾丸の破片を腿に受け、
割腹自殺をとげたことを知った。
秀れた人物であった小倉の死は、小藩出身者の宿命を象徴していた。
帰国してから一ヵ月後、小村は司法省雇として刑事局出仕となり、翌年判事に任ぜられて大阪控裁判所詰になった。
かれは、司法官としては目立たぬ存在で、陰では無能な男と言われていた。
それは、かれが国語、漢文の素養に欠け、その上悪筆であったので法文の論究、判決書の起草が拙く、
もっぱら英米の法律文書の翻訳に従事するだけであったからであった。
さらに私生活でも、大酒し女遊びも激しく、先輩、友人は大学南校の秀才小村も凡物に化したと眉をひそめていた。
かれは、旧幕臣朝比奈孝一の長女町子十七歳と結婚、一男の父になっていた。
明治十七年、外務省に転じ、外務権少書記官として公信局勤務となり、さらに翻訳局に移って外国電報の翻訳、校正に従事した。
その頃、かれを最も悩ませていたのは債権者であった。
かれの父寛は、明治四年、廃藩置県のおこなわれた後、旧藩士の出資のもとに旧藩の物産方をひきついだ物産会社を設立、
明治六年には社長に就任した。
経営は順調であったが、旧藩の事業を独占する物産会社への批判が起ったため、会社を飫肥地区の共同経営とした。
この頃から社運は傾き、内紛もあって会社は解散した。
寛は家運の挽回をはかって木材の伐採・販売に手を出したが、それにも失敗し、負債をかかえる身になった。
家は没落し、妻梅子は家を去り、寛の負債は、官吏になった長男の寿太郎にふりかかった。二千円余の額であった。
小村は、債権者の追及に辟易して高利貸の融通を受けたためたちまち利息がふくれ上り、莫大な債務を負うことになった。
債権者たちは絶えず家に押しかけて怒声をあげ、役所にもやってきて小村を呼び出し、俸給を奪っていった。
生活は、窮した。家財はほとんど売り払われ、座ぶとんも二枚しかなく、
客が二人訪れるとかれは畳の上に坐らねばならなかった。
客が煙草をすいはじめると、煙草を乞うてもらいうけ嬉しそうにすった。
衣類も質屋に運ばれ、役所通いに必要なフロックコートが一着あるだけで、それも色が褪めていた。
外套は留学時代にアメリカで買いもとめたものを着用していたので、繊維はすり切れていた。
傘はなく、雨の日は濡れて歩く。散発することも稀であった。
かれは、借金返済の期日がせまると家に近寄らず外泊した。
同僚や旧知の友人たちの家を泊まって歩き、しばしば遊里にも行った。
居つづけをしながら支払いをしないので断わられ、茶を飲んですごすことも多かった。
同僚と会食をしても会費を払うことはなく、それでも平然と出席するかれは敬遠された。
かれの大きな誤算は、妻の町子であった。
かれが町子を妻にめとったのは、その美貌にひかれたからであった。
町子は、女子としては珍しく明治女学校卒の高等教育を受けた娘で、留学から帰国したばかりのかれには得がたい娘に思えた。
しかし、結婚後、かれは、妻が家事を一切せぬ女であることを知って愕然とした。
女として身につけておかねばならぬ裁縫の針をとることもせず、料理もできない。
近くに実家があって、その仕送りで女中を雇い、すべての家事をやらせる。
それに、感情が激することが多く荒い言葉を口にしたり物を投げたりして、小村が腹を立てると、
実家の両親のもとに行って泣いて訴える。
結婚した頃は、アメリカで眼にした夫婦のように妻を連れて散歩することもしばしばだった。
妻の方が背が高かったが、留学中、背の高い女の中で過したかれには気にならなかった。
子供が生れても、妻の生活態度は変らなかった。
彼女の唯一の趣味は芝居見物で、子供を女中に託して実家の母などとしばしば外出する。
それをなじると、妻は泣きわめいた。
町子は、幼児のような女であった。
食事も気の向いた折にすませ、小村と食膳に向い合って坐ることもない。
小村は妻を持て余し、ほとんど口をきくこともしなくなった。
明治十九年、翻訳局次長に任ぜられ昇給もしたが、借財は利息が加算してさらに増し、
かれは相変らず古びたフロックコートを着、破れた靴をはいて役所に通っていた。
第一回文部省留学生として渡米した友人の鳩山和夫は外務省翻訳局長、斎藤修一郎は欧文局長の要職にあって、
小村のみが下積みの仕事をあたえられ、その苛立ちと債権者の容赦ない催促に、酒を飲み女を買う荒れた生活がつづいた。
明治二十五年、小村は翻訳局長に昇進したがそれまで住んでいた水道町の借家を家賃がとどこおって追い立てられ、
本郷新花町の小さな借家に移った。
襖は破れ畳はすり切れ、庇も傾いている廃屋同様の家であった。
かれは、ゴム靴をはき、破れ目をつくろったフロックコートを着て外務省に出勤した。
貢進生として共に大学南校に学んだ杉浦重剛、菊池武夫ら七人は、小村の生活を見かねて救済方法を話し合った。
その結果、かれらが連帯保証人になって債務を弁済することになり、小村の負債額を調べ、
その額が元利とも一万六千円にも達していることを知って驚いた。
小村の月棒は百五十円で、それをすべて返済に廻しても利息にすら追いつかない。
杉浦らは親しい有力者に無利息で四千四百円を借り受け、また、小村の旧藩主伊東祐帰に訴えて五百円を拠出してもらった。
さらに室田外務省会計局長の協力を求め、小村には月棒のうち五十円を渡し、百円を有力者からの借金の返済にあてることにした。
そのような準備をととのえた上で、債権者二十数名を呼び集めた。
杉浦らは、かれらに四千九百円の現金をしめし、債権額を割引けば即座に金を渡すと告げ、借用証の競売を提案した。
債権者たちは異例の申出に驚き、中には反対する者もいたが、小村から金を取り立てることはほとんど不可能であることを知っているかれらは、
全員がしぶしぶ同意した。
金が分配され、その場で借用証は一枚残らず破り捨てられた。
杉浦らの尽力によって、高利貸からの借金はすべて消えたが、
俸給の三分の一しかあたえられぬ小村の生活は苦しかった。
かれは、相変らず色褪めたフロックコートで通勤し、わずかに民間会社の依頼による英文書の翻訳の謝礼で、酒を飲み女を買っていた。
そのうちに、かれの身に変化が起った。
行政整理で翻訳局が廃され、かれは自然に退官されることになったのである。
吉村昭 「ポーツマスの旗」
P.53この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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