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桂 太郎 1848 − 1913
[ かつら・たろう ]
エピソード 1ニコニコしながらポンと相手の肩をたたいて好感度を演出するところから、
ニコポンのあだ名のある商人のような軍人政治家で、のちには護憲派から親の敵のように見られる桂だが、いいところもある。
ポーツマス条約を調印した小村寿太郎が帰国したときのことだ。このとき、日本は講和反対の世論で内乱の一歩手前の状態。
日比谷焼き打ち事件では小村の家族も危険にさらされたが、今度は本人が危ない。当然厳戒態勢が布かれた。
そんな中、首相だった桂は小村を新橋駅に迎えに出、あいさつを交わすと、同行の山本海相と二人で、小村の両側に立ち、
腕を抱えて歩きはじめたのだ。やられるならもろとも、という決死の覚悟がなければできない行動だった。
さすが戦勝国日本の首相!
エピソード
長州閥と言えば、まず山県。
次に伊藤や井上を飛び越えて桂、寺内、田中。この4人には不思議な符合がある。
いずれも権力の頂点から落っこちたとたん、悲嘆のうちに死ぬのである。特に桂。彼は得意満面で3度目の首相の座についたが、
護憲運動で50日の短命政権。新党結成宣言(立憲同志会)までしながら、新党が立ち上がる前に世を去った。
わずか8か月間元老だったわけだ。
引用桂は長州出身で、若いころ戊辰戦争に出征したが、むろん無名の一士官にすぎず、その後、陸軍畑に入って累進した。
この間、日本陸軍をドイツ式に変えることなどについて功があったというように、野戦型よりも軍政型であり、
いっそ軍人であるより政治家であったほうがふさわしかった。
「桂は、サーベルを吊った幇間だ」
とのちに酷評されたり、ひとを懐柔するためにたえず惜しみなく笑顔を作り、
親しみをみせるために肩をたたいたりしたことによって、ニコポンというあだなをもらったりした。
いわば調整の名人であった。
引用岡崎邦輔(陸奥宗光の従弟)によると「桂はほかに何の取柄もない男であったが、金を作ることだけはうまかった」という。
桂の金権政治の一例は、悪税として評判の悪かった三税を強引に残したことである。
三税とは塩税、織物税、通行税で、これは大財閥にはさして関係がなく、勤労無産大衆を苦しめるものである。
日露戦争中特別に課せられたもので、西園寺内閣でも問題になったことがあるが、
桂は戦後三年たった時点で、なおこの三税を土台として予算を編成し、第二十五議会(四十一年十二月)を切り抜けている。
その反面彼は財閥の人気を得る為、国債に対する国庫償還金を増加し、国債利子所得税の免除法案を提出した。
この為公債は値上がりし、実業家議員は満足の意を表した。
これまでの元勲による高圧的な藩閥政府ではとても難しい時代はやってゆけぬと考えた桂は、
銀行家実業家に対してご馳走政策をとり、第一次桂内閣の頃は再三彼らを首相官邸に招待して鰻料理を奢り、懐柔に努めた。
桂の仇名は“ニコポン首相”である。
人と会えば「やあ、元気かね」とにこにこし、「よろしく頼むよ」と肩をポンと叩くのである。
またの名を幇間首相とも言った。
第二次内閣になると、会場を丸ノ内の三井集会所に移してこの鰻会を再開し、更に実業講習会等と称して、
富豪実業家に対して饗応政策をとった。
心ある実業家は眉をひそめていたが、成金連中は総理のお招きにあずかることを光栄としていた。
豊田穣 「西園寺公望(上)」
P.401この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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