ダグラス・マッカーサー
1880 − 1964
日本占領軍最高司令官、国連軍最高司令官、陸軍参謀総長、陸軍元帥 / アメリカ
一覧 (マ) 本を入手袖井林二郎著
エピソード 1さんざんトルーマン大統領にタテついて解任されたマックは、 帰国後、議会で自らの日本統治について自画自賛している。 その中で、「もしアングロサクソンが科学・芸術・神学・文化の発展において仮に45歳だとすれば」と言い、 ジャパニーズを12歳の少年にたとえている。 すると、占領時代というのは「老兵」に子供扱いされた時代ということになる。 だが、もしその後、しかるべく成長を遂げているなら、別に嘆くことはないだろう。
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1930/11/21   マッカーサー、(米)陸軍参謀総長就任
1932/07/28   ボーナス・マーチ襲撃事件 (ワシントン)
1941/07/26   マッカーサー、(米)極東陸軍司令官就任
1941/12/08   ハワイ奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)
1942/01/02   日本軍、マニラ占領
1942/05/07   コレヒドール島(フィリピン)のアメリカ軍降伏
1944/10/10   アメリカ機動部隊、沖縄を空襲
1944/10/20   アメリカ軍、レイテ島(フィリピン)上陸
1944/10/24   レイテ沖海戦
1945/04/01   沖縄戦開始 (アメリカ軍、沖縄本島上陸)
1945/08/15   玉音放送 (終戦の詔勅)
1945/08/30   マッカーサー厚木到着
1945/09/02   降伏文書調印 (全権:重光葵梅津美治郎/第二次世界大戦終結)
1945/09/03   重光・マッカーサー会談 (軍政中止)
1945/09/15   日比谷にGHQ本部設置 (第一生命相互ビル)
1945/09/27   天皇、マッカーサーを訪問 (会談@)
1945/10/11   マッカーサー、幣原首相に憲法改正と5大改革を要求
1946/01/04   GHQ、軍国主義者の公職追放などを指令
1946/02/03   マッカーサー、GHQ民政局に日本憲法草案作成を指示 (02/10 完成)
1946/02/13   GHQ、松本試案(改正憲法)を拒否、GHQ草案受け入れを要求
1946/11/03   日本国憲法公布
1948/05/18   アメリカ陸軍省、ドレーパー調査団報告を発表
1948/11/12   東京裁判、A級戦犯25被告に有罪判決
1948/12/18   GHQ、経済安定9原則を発表
1949/10/01   中華人民共和国成立 (主席:毛沢東
1950/06/25   朝鮮戦争勃発
1950/07/08   マッカーサー、吉田首相宛書簡で警察予備隊の創設などを指令
1950/07/08   トルーマン(米)大統領、マッカーサー元帥を国連軍最高司令官に任命
1950/07/01   アメリカ軍、釜山に上陸
1950/09/15   国連軍、仁川に上陸 (反撃開始)
1950/10/03   国連軍、38度線突破 (10/10 中国抗議)
引用マッカーサー信者たちにとって、短期間の占領でマッカーサーが成功し政治家としての信用をつくりあげることが、 一九四八年選挙の展望のために重要なことであった。 戦争中のどの調査でも、マッカーサーは常に、アメリカで最も讃えられている軍人の一人であった。 しかし世論調査の専門家であるエルモ・ローパーが言ったように、 「文民指導者としての彼の能力を信じている人はほんの一握りしかいなかった」。 この問題は戦争終結後もそのまま残った。 四六年四月に行われたギャラップ世論調査によれば、世界で最も讃えられる人物として、マッカーサーは、 ドワイト・D・アイゼンハワー将軍トルーマン大統領ウィンストン・チャーチル、トーマス・デューイ知事、 ハロルド・スタッセン知事らを押さえて第一位であった。 しかし四六年、四七年のどちらのギャラップ調査でも、大統領候補者を選ぶよう求められた共和党員への質問では、 マッカーサーは一〇%以下の支持しか得られなかった。 文民と軍人を区別するという伝統を反映して、調査に答えた圧倒的多数の人々は、 アイゼンハワーやマッカーサーをはじめとする戦場の英雄は、大統領候補者にはなれないと考えていたのである。
引用ダグラスは父を理想の人格として生涯を通じて尊敬しており、その勇気、指導力、行政能力をそっくり引きついだといわれる。 しかし彼は同時に父の資質に含まれていた二つの欠点も引きついでいた。 それは、「自分の領域と見なしているところへ文官が口をさしはさむことに対する軽蔑と侮蔑、 そして自分の管轄権を越えた問題に対して遠慮ない発言を行なうこと」であった。 この父にしてこの子あり。二人を知るものは親子を貫く強烈な個性についてこうもいう ―「わたしはアーサー・マッカーサーほど、とほうもなく自我意識の強い人物はないと考えていた ―とにかくその息子に会うまではね」
引用大統領に当選したフランクリン・ルーズベルトは、 【中略】 マッカーサーの姿に独裁者の影を見出し、 「稀代のデマゴーグ」ヒューイ・ロング上院議員と並んで「アメリカで最も危険な二人の人間」に数えた。 その言明を直接聞いたタッグウェル(のちの大統領顧問)によると、 ルーズベルトは次のように語ったという―この国の企業家や影響力ある人々は、 この三〇年代の経済的危機の中で民主主義を軽蔑し、強力な指導者を求めている。 アメリカでシーザーになり得る人間の中で「マッカーサーほど魅力と経歴と威厳に満ちた風貌をみごとに備えている人間はいない」
フーバーの古典的な自由主義を奉ずるマッカーサーにとって、ルーズベルト政権下に参謀総長として五年の月日を過すことは、 かなり辛いことだったに違いない。 思想的にはニューディール政策に一貫して反対だったし、ますます緊縮を強いる議会から軍事予算を守ることが、 彼の最大の任務だったのである。 彼はニューディール政策の一つとして行なわれた青少年の失業対策である「資源保存民兵隊」の訓練に、 軍の全施設をあげて努力しているが、これは大統領のお気に入りの計画を推進することによって、 軍に対する予算の確保をねらった政治的な動きだったと見られる。 ルーズベルトはマッカーサーを警戒しながらも、参謀総長としての彼の任期を一年延長し、 また保守派の代表とみなして、自分の政策の効果を打診するために、彼にさまざまの助言を求めていた。
引用第一次大戦では現地指揮官として数々の戦功を重ね、一九年、三十九歳の若さで陸軍士官学校校長、 三〇年、ハーバート・フーヴァー大統領によって史上最年少の五十歳で陸軍参謀総長(これは父親が自ら念願しながら果たせなかったポストである) に任命されるなど、目覚しい昇進をとげた。 当時フランクリン・ローズヴェルトが「マッカーサーほど魅力と伝説と堂々たる風貌に恵まれた男はほかにいない」と評しながら 警戒していることが注目される。
三五年、マッカーサーは新設の軍事顧問(正規の在比米軍とは別)として四度目のフィリピン勤務に臨むが、 これ以後、三七年に一時帰国しただけで、五一年までアメリカ本土に帰っていない。 この軍事顧問時代に彼は退役しており、そのまま軍歴を終えるはずであった。
しかし日本軍の南進で日米関係が危機に瀕するや、一九四一年七月、彼は現役に復帰し、 米極東陸軍司令官として対日戦を指揮することとなる。 太平洋戦争初期、バターンとコレヒドールで日本軍の猛攻を受け、本国の決定で四二年三月オーストリアに撤退する屈辱を味わうが、 その後ニューギニアから島伝いに北上する対日反攻を展開、 四四年十月のレイテ島上陸で「アイ・シャル・リターン」という撤退時の有名な公約を果たした。 戦時の熱狂のなか、マッカーサーは栄光ある英雄に相違なかった。 四四年末、五つ星の元帥に昇進、日本の敗戦に際しては米太平洋陸軍総司令官と連合国最高司令官を兼任する。
かくして四五年八月三十日、征服者として日本に進駐し、ワシントンの指令に基づき、 公職追放、憲法改正、戦犯裁判、財閥解体、農地改革、教育改革ほか多岐にわたる占領政策を実施していく。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。