真崎 甚三郎
1876 − 1956
[ まさき・じんざぶろう ]
陸軍教育総監、参謀次長、台湾軍司令官、第1師団長、陸軍士官学校校長、陸軍大将
一覧 (マ) 本を入手 
エピソード 1調査中。
・ 佐賀県出身。陸士卒。日露戦争に従軍。陸大卒。
・ 陸士校長時代、尊皇絶対主義の訓育に努め、安藤輝三、磯部浅一らを輩出。
・ 台湾軍司令官など経て参謀次長に就任、荒木陸相とともに皇道派を形成。勢力伸張を図る。
・ ついで教育総監に就任、天皇機関説問題では国体明徴運動を積極的に推進。
・ 林陸相による反皇道派人事により罷免され、これが相沢事件二・二六事件の誘因となる。
・ 二・二六事件では、安藤、磯部らに共感を示しつつ、収拾に努める。
・ 事件後、「反乱幇助」の容疑で軍法会議にかけられるも無罪。
・ 戦後、戦犯として逮捕されるが不起訴。
1931/09/18   柳条湖事件 (満州事変勃発)
1931/10/17   十月事件 (桜会によるクーデター未遂)
1932/05/15   五・一五事件 (犬養首相暗殺)
1932/09/15   満州国承認 (日満議定書調印)
1933/03/28   日本、国際連盟脱退
1934/01/23   荒木陸相辞任 (後任:林銑十郎
1935/02/19   天皇機関説問題 (菊池武夫、貴族院で天皇機関説を非難)
1935/04/06   真崎教育総監、全陸軍に国体明徴の訓示
1935/07/15   真崎教育総監更迭 (後任:「統制派」渡辺錠太郎
1935/08/12   相沢事件 (永田軍務局長斬殺)
1936/02/26   二・二六事件
1936/03/23   陸軍、二・二六事件関係者の処分と人事異動を発表
1936/07/05   二・二六事件判決 (東京陸軍軍法会議)
1937/07/07   盧溝橋事件 (日中戦争勃発)
1941/12/08   ハワイ奇襲攻撃 (AM03:25/太平洋戦争勃発)
1945/08/15   玉音放送 (終戦の詔勅)
1945/11/19   GHQ、戦争犯罪人逮捕を指令A (小磯松岡ら11人)
1946/04/29   A級戦犯容疑者28人の起訴状発表
1946/05/03   東京裁判(極東国際軍事裁判)開廷
語録 教育というものは被教育者の美点を発見してやることである。 教育者は、被教育者の地位に身をおかなければ教育はできない。 教官が怒ってしまうようでは兵隊の教育ができるだろうか。
語録 私は参謀次長として、宮殿下の御決裁を仰がなかった。 宮殿下に責任がいくような決裁は仰ぐべきではないと考えた。 の御徳は仰いだけれども、その能力は仰がなかった。 だからいつも、“これこれの案がございますが、私はこの案がよろしゅうございます”というようにして、 あの満州事変を乗り切った。
丸坊主にして衣を着せたら、どこに出しても相当の名僧知識と誤られる。 その話がまたすこぶる禅味を帯びたものである。 決して軍の現状、あるいは過去のことは触れないで、宗教、哲学のことである。 思想問題については特に話題が豊富であった。
高宮太平 (朝日新聞記者)
真崎はこちらの追及を巧妙にかわして否認一点張りで逃れる。まことにずるい。 かんじんのところにいっても否認を繰り返す。他からの証言を突きつけても「記憶にないなあ」とか「何かの間違いではないか」 を繰り返してトボける。非常に狡猾である。
阪埜淳吉 (予審官)
陸大を優等で卒業するほどの頭脳であり、法学、哲学を中心とする読書家でありながら、 眞崎は近代的知性派ではない。どこか土着的で浪花節的な人情家である。
升本喜年 (作家)
二・二六事件の最も大きな被害者は真崎であった。 それに対する償いと言うよりも、もっと切実な意味で彼を必要とする空気が感取されるのである。
山浦貫一 (ジャーナリスト)
引用歴代の大将の中で、眞崎甚三郎ほど悪イメージの色濃い大将はいない。
二・二六事件の叛乱幇助罪で起訴され、陸軍大将として、西郷隆盛以来の汚名とさえいわれている。 時代が違うといえば、それまでだが、西郷の場合、後に恩赦を受けて名誉回復している。 だが、眞崎にそれはない。
一言でいうと、眞崎甚三郎は自己の野心のために、革新派青年将校らを扇動し、 史上空前のクーデター「二・二六事件」を導いた老獪狡智の悪党将軍ということになっている。
決起した青年将校たちは、刑場の露と消えたが、眞崎は無罪であった。 そのことが、眞崎の悪イメージをいっそう増幅する。 眞崎本人の戦後の弁明もあるし、実弟眞崎勝次(海軍少将)のソ連陰謀説などの眞崎擁護論や弁明論もないではないが、 説得性は希薄である。
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。