真崎 甚三郎 1876 − 1956
[ まさき・じんざぶろう ]
陸軍教育総監、参謀次長、台湾軍司令官、第1師団長、陸軍士官学校校長、陸軍大将
エピソード 1調査中。
語録
教育というものは被教育者の美点を発見してやることである。
教育者は、被教育者の地位に身をおかなければ教育はできない。
教官が怒ってしまうようでは兵隊の教育ができるだろうか。
語録
私は参謀次長として、宮殿下の御決裁を仰がなかった。
宮殿下に責任がいくような決裁は仰ぐべきではないと考えた。
宮の御徳は仰いだけれども、その能力は仰がなかった。
だからいつも、“これこれの案がございますが、私はこの案がよろしゅうございます”というようにして、
あの満州事変を乗り切った。
評
丸坊主にして衣を着せたら、どこに出しても相当の名僧知識と誤られる。
その話がまたすこぶる禅味を帯びたものである。
決して軍の現状、あるいは過去のことは触れないで、宗教、哲学のことである。
思想問題については特に話題が豊富であった。
高宮太平 (朝日新聞記者)
評
真崎はこちらの追及を巧妙にかわして否認一点張りで逃れる。まことにずるい。
かんじんのところにいっても否認を繰り返す。他からの証言を突きつけても「記憶にないなあ」とか「何かの間違いではないか」
を繰り返してトボける。非常に狡猾である。
阪埜淳吉 (予審官)
評
陸大を優等で卒業するほどの頭脳であり、法学、哲学を中心とする読書家でありながら、
眞崎は近代的知性派ではない。どこか土着的で浪花節的な人情家である。
升本喜年 (作家)
引用歴代の大将の中で、眞崎甚三郎ほど悪イメージの色濃い大将はいない。
二・二六事件の叛乱幇助罪で起訴され、陸軍大将として、西郷隆盛以来の汚名とさえいわれている。
時代が違うといえば、それまでだが、西郷の場合、後に恩赦を受けて名誉回復している。
だが、眞崎にそれはない。
一言でいうと、眞崎甚三郎は自己の野心のために、革新派青年将校らを扇動し、
史上空前のクーデター「二・二六事件」を導いた老獪狡智の悪党将軍ということになっている。
決起した青年将校たちは、刑場の露と消えたが、眞崎は無罪であった。
そのことが、眞崎の悪イメージをいっそう増幅する。
眞崎本人の戦後の弁明もあるし、実弟眞崎勝次(海軍少将)のソ連陰謀説などの眞崎擁護論や弁明論もないではないが、
説得性は希薄である。
升本喜年 「軍人の最期」
P.146この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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