牧野 伸顕 1861 − 1949
[ まきの・のぶあき ]
外相、農商務相、文相、内大臣、宮内大臣、パリ講和会議全権、大久保利通の次男、吉田茂の義父
エピソード 1調査中。
引用牧野伸顕は維新の元勲大久保利通の次男で、悠然としてエレガントな人柄が西園寺の気に入り、
後にも共に重臣として親しく国政に干与し、共に右翼過激派から狙われるようになる。
牧野は外務省をふりだしに、参事院議官補、総理秘書官、福井県知事、文部次官、イタリア大使、オーストリア大使を経て文相となったもの。
パリ講和会議(一九一九)では西園寺と共に全権、後内大臣、宮内大臣を歴任。
二・二六事件では宿泊先の旅館を焼かれた。
豊田穣 「西園寺公望(上)」
P.347この本を入手
引用牧野伸顕は、大久保利通の二男として鹿児島県に生まれた。
明治四年には岩倉具視一行についてアメリカに留学し、十一年、外務省書記生となってロンドンに在勤した。
そのころ憲法調査のためイギリスにきた伊藤博文の知遇をうけたが、
もちろん、大久保利通の倅というところで伊藤が特別に目をかけたのであろう。
いうまでもなく、伊藤は大久保利通に薫陶され、大久保亡きあとはその衣鉢を継いだ第一人者だ。
帰国後、福井、茨城県知事などを経て、文部次官、オーストリア、イタリア公使などをしていたが、
明治三十九年、第一次西園寺内閣の文部大臣となった。
その後は枢密顧問官となり、また第二次西園寺内閣では農商務相となり、
山本権兵衛内閣の外相であった。
パリ講和会議には西園寺とともに全権となって現地に赴いている。
大正十年、宮内大臣となり、十四年に内大臣となった。
こうした履歴でも分る通り、牧野は宮中にも外務省にも欝然たる勢力を張り、
また政党と官僚の媒体者でもあった。
なお、吉田茂はその女婿である。
松本清張 「昭和史発掘(4)」
P.242この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
「牧野伸彰」「牧野信顕」は表記に誤りがあります。 |