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毛沢東 1893 − 1976
[ もう・たくとう ]
国家主席、党主席、最高実力者、革命指導者 / 中国
エピソード 1
授業中や会議中に、開いたノートについ落書きをしてしまう学生や社会人は毛沢東と共通点がある。
毛も、抗日戦線についてなど、中国共産党のさまざまな方針を決定する会議でそんなことをしていたらしい。
ただし、彼の会議中の落書きには2つの大きな特徴があった。
一つは、落書きの内容が詩作だったこと、もう一つは、会議が終わると、
出席者たちによって、書きかけの詩の奪い合いが始まったということだ。
毛沢東、彼は詩を愛する革命家だった。
語録
国民党は五年半のあいだ手をこまねいて傍観してきた結果、戦闘力を失ってしまった。
共産党は五年半のあいだ悪戦苦闘した結果、戦闘力を強めることになった。
こうした状況は、今後の中国の運命を決定するであろう。
語録
十月革命の砲声がとどろいて、われわれにマルクス・レーニン主義が送り届けられた。
十月革命のおかげで、全世界の、そしてまた中国の先進的な人びとは、
プロレタリア階級の世界観を国家の運命を観察する手段として、
あらためて自分の問題を考え直すようになった。
ロシア人の道を歩むこと―これが結論であった。
引用アメリカのジャーナリスト、エドガー・スノーは、『中国の赤い星』で、一九三七年に毛沢東にはじめてあったときの印象を
「非常に機敏で知的」と書き、さらに次のように補っている。
「毛は中国古典のひとかどの学者であり、りっぱな演説家であり、異常な記憶と、人なみはずれた集中力をもつ人物であり、
有能な文筆家であり、うまざる読書家であり、哲学と歴史の深い研究家であり、個人的な習慣や風采にはかまわぬが、
義務的事務には驚くほど細心であり、疲れを知らぬ精力家であり、また天才的な政治的、軍事的戦略家である」。
性格については「・・・・・・かれの周囲の雰囲気は、必要と考えたときには、かれが冷酷と思われるほどの決断力を持っていることを
思わせる」とも記している。これはアメリカの女性革命作家で、遺志により北京に葬られているアグネス・スメドレーの、
「毛沢東のなかには、朱徳にあるような謙遜はまったく見られない。
女性的な性質であるにもかかわらず、彼はらばのように頑固で、自尊心と決断の鋼鉄の棒が彼の性質を貫き通していた。
毛沢東という人は、何年でもじっと待っているが、結局は自分の意思をおし通す人だという印象を、私はうけた」と一致している。
木村英亮 「二〇世紀の世界史」
P.112この本を入手
引用建国当初、毛沢東が国家主席となって、民主的党派を中心にした政治協商会議が政府を構成し土地改革を徹底して農民を解放したが、
やがて共産党の一党支配が強まってくる。
一九五二年には早くも「三反五反」運動で民族資本家と知識人に圧力が加えられる。
第一次五ヵ年計画の成功は、毛沢東の性急な理想主義を刺激し、
一九五七年には反右派闘争が発動されて多くの知識人が「右派」のレッテルを貼られて社会的に口を封じられた。
五八年には「大躍進」政策が鼓吹され、基礎技術のない新農法や水増し報告、企業や学校で小高炉を築いて鉄の増産をはかる「土法製鉄」などが行われ、
産業に大きな打撃が加えられるとともに、政経一致の人民公社が設立され、収穫期に農民が動員されたため収穫ができず、
自然条件も災いして多くの損害がでた。
三年間で二千万人の餓死者がでたと一説には言う。
一九五九年、盧山で開かれた中央政治局拡大会議で、毛沢東に諫言した彭徳懐将軍は失脚し、
毛自身も国家主席を退くが、六〇年以降、経済建て直しで実権を得てきた劉少奇を標的に、六六年、文化大革命が発動された。
毛沢東は、学生を中心にした紅衛兵を動員して党内の実力者を排除し、林彪や自身の妻の江青ら「四人組」の台頭を許し、
政治、経済、文化の面で全国的に大きな被害をもたらしてしまった。
井波律子 「中国史重要人物101」
P.213この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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