村中 孝次 1903 − 1937
[ むらなか・たかじ ]
「皇道派」青年将校、陸軍大尉
エピソード 1調査中。
語録
やるやらないが問題ではなく、日本がこういうことではいかん、という理論が国民の間に澎湃として起ってくることが必要なのだ。
人を斬らずにすめば、それが一番いい。斬るとか斬らないとかいうのは末の末の問題だ。
引用村中孝次は明治三十六年十月三日、北海道旭川市に生れ、
旭川中学から仙台陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校に入った。
大正十四年卒業の第三十七期生で、同期には香田清貞大尉がいる。
少尉に任官して旭川歩兵第二十六連隊付となる。
「所謂○○(十月)事件の手記」を書いた田中清もこの連隊に籍を置いていた。
昭和三年に中尉にすすみ、陸軍士官学校の区隊長に転じた。
区隊長時代の村中は、生徒に皇道精神、革新思想を説いた。
五・一五事件に参加した士官候補生は村中の影響を強くうけたものばかりである。
また、二・二六事件の中島莞爾、安田優、高橋太郎の三少尉もやはり彼の教え子だった。
村中はこのころから西田税のもとに出入りしている。
末松太平の「私の昭和史」には、藤井斉大尉(のち上海で戦死)、古賀清志、中村義雄両中尉、大庭春雄、
伊藤亀城少尉(五・一五事件の連累者)らの海軍や、菅波三郎中尉、井上日召、
渋川善助らとともに村中が西田家の常連だったとある。
五・一五事件の参加候補生に思想的影響を与えたということで、
村中は旭川連隊に戻された。
昭和七年十二月、彼は陸軍大学校に入学した。
皇道派青年将校のほとんどが陸大に入っていないのに、彼だけは異例だった。
当時、革新思想をもつ青年将校たちは、天保銭組の軍上層部や幕僚たちの官僚的な出世主義に反撥していたから、
故意に陸大の入試を受けなかった(第七巻二五三頁以下参照)。
事実、二・二六事件関係者で陸大に入ったのは村中だけである。
村中が陸大に入学したいきさつでは大蔵栄一の談話がある。
村中は士官学校区隊長時代、上官から陸大受験をすすめられて断ることができず、
合格ラインのスレスレで落ちることを考えて答案を手加減して出した。
結果は最下位合格者の二人くらい下で、危うく及第してしまうところだった。
そのあとで五・一五事件のとばっちりで旭川に飛ばされた。
東京をはなれるとき、村中は同志に、今度は合格して東京に戻るよ、と約束した。
革新運動の中心は、やはり東京だからだ。予定通り村中は合格して上京した。
―村中の頭脳のよさを語る挿話である。
九年三月に大尉に進む。この前後に田中清少佐と親交がある。
その年、例の士官学校事件で磯部浅一と共に検挙された。
村中が「理論家」というのは関係者がひとしく認めている。
彼は相沢公判対策で「相沢中佐の片影」を書き、直心道場から出ている「大眼目」には「相沢精神」の普及に筆をふるった。
理論は不得手で、行動主義の磯部にはこれが不満である。
そのため、磯部が村中と別居するという、ちょっとした分裂が生じる。
村中にはおそらく文章に対する自信があったのだろう。
事実、彼が獄中で書いた「丹心録」「続丹心録」は漢語を駆使した一種の名文で、
他の連累者のものより図抜けている。
論理の展開にも晦渋がない。
こういうところを見込まれて西田に「文書合戦」の執筆部門を頼まれたのであろう。
松本清張 「昭和史発掘(8)」
P.171この本を入手
※ 「クリック20世紀」では、引用部分を除いて、固有名詞などの表記を極力統一するよう努めています。
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